White Alice
#03 ワクチン
わたくしは、今まで、どれだけ自分が世界を見ていなかったのか――。
肺一杯に重い空気が広がって、殆ど暗闇のような世界に落ちていった。
そう、あの――地下階の空気の中。
重く湿った、空気――
そして、次、目を覚ましたとき――わたくしは知らない病室だった。
「私はサリィ・ポォ。医者よ。貴方、ついてるわよ」
髪を二つに結わえた、わたくしよりも年上の女性は、わたくしが目覚めた早々、そんなことを言ってきた。
「ついている?」
意味がわからない。
「ついてるでしょう?だって、地上から落ちてきて、生きてる。普通は柱とか壁、屋根に引っかからないと、助からないのよ?」
サリィの指摘は最もだ。
だがそれならば、わからないこともある。
「わたくしは何故、助かったのですか?怪我だってしていない」
あの高さから落ちて、かすり傷一つ無い。不可解だ。
そんなわたくしの疑問にサリィは笑顔で簡潔に答えた。
「怪我は落ちたと言うより、降りてきたから」
「――降りて…?」
「さ。その話はまた後で。今は起きたのならば、ベッド開けてくれる?今回は怪我人だらけだから」
わたくしは事態をまるで掴めなかった。
そんなサリィに案内されるまま室内を出た途端、思わず――わたくしは足が止まった。
「……夜のよう」
はじめてみる地下階での風景は想像以上に闇に支配されていた。
天井が高く…空のよう…。
「ようこそ。地下階へ」
サリィは深く微笑んだ。
案内された部屋に行くと、驚いた。
地上から降りたのか落ちたのかはわからないが、そんな者はわたくしだけではなかった。
部屋には怪我をした大勢の地上の人たちで溢れていた。
「列車の人たちが助かったのですか?」
わたくしが乗っていた列車が落ちていったことは覚えている。
「貴方が乗っていた列車の人たちは全員駄目。彼らは運よく柱に引っかかった人たち。別の場所で」
「別?」
まるで事態がわたくしはつかめていない。
だから、もう、ダイレクトに聞く。
凛とした、揺るがない声で。
「地下階から攻撃があると、地上では最近、ずっと噂されていましたが、本当にそうだったのですか?地下階からの攻撃だったのですか?!」
「半分そうだけど、半分違うわ。少なくとも私たちは、あんな穴を開けるような強引な真似はしない」
「半分?」
「大体、いくら地下と地上で気圧を変えてあるって言っても、穴なんてあけたら危険でしょう?ウイルスの怖さを私たちは誰よりも知っているもの」
「ですが!」
「まぁ。これ以上は機密なの。それよりも、貴方にもまずは地下のここのルールを教えてあげないとね」
納得できないわたくしの声を止めるように、サリィはファイルから書類を取り出した。
よく見ると、周りの人たちも同じような紙を持っている。
「いつも犯罪者とかが地下に送られるから、そのマニュアルなの。まぁ今回はこれだけ大勢で、しかも一般人が殆どだけど。ここでは一緒。貴方たちが、私たちのことを思っている感情と同じ。私たち地下の者も地上の貴方たちを良くは思っていない」
サリィの言葉に、傷ついたのは本当だ。だが、表情を崩すことだけは耐えた。
「で、マニュアルだけど。まず貴方たちが一番に考えることは、住むところもそうだけど、ワクチン接種」
「ワクチン…ウイルスの?」
地上と地下。人類が地下に潜る事になった根本のウイルス。
「そう。地上を壊滅させ、感染者を地下階へ追いやったウイルスの亜種。地下に来て変化したタイプ。地下階の者は長年のことで免疫があって平気だけど、地上の者たちはワクチン接種が必要なの。だからまずはそのワクチン接種ってわけ」
「ですが、それならばもうわたくしは感染しているのではないのですか?」
「ええ。でも平気。誰でも最低一週間は発症しないから。それまでに打てば助かる」
打たなければ、死ぬ。そんなこと。聞くまでも無くわかる。
何しろ地上を壊滅させたウイルスだ。
「それで、そのワクチンだけど、一回十万ユーロなの」
「十万…?お金がかかるのですか?そんな命にかかわるようなものなのに?政府からの社会保証では」
「冗談でしょう?」
サリィが軽く笑った。
「ここの政府なんて無いのと同じ。ここは地下階」
「……そんな…」
わたくしが声を出すよりも前にサリィは、理解しているとばかりに頷く。
「ごめんなさい。地上とは違うのよ。何もかも。機関もそうだけどお金のレートも単位も違う。ワクチン代の十万の価値としては、大体、地下階で言う所の平均月収の半年分くらい」
「半年!?」
想像以上の高さに声が裏返ってしまう。
しかし、そんなわたくしの驚きもサリィは慣れているようで大して驚きもしない。
「ええ。驚くわよね。一週間以内にそんな大金。そうそう用意できるもんじゃない。でも、接種しないといけない。そこでよ」
サリィは持っていた書類を差し出した。
誓約書や契約書だ。
「これは?」
「まずは着ているもの、つけている物を全部売る。十万ユーロはそう簡単にはならないけど、地上の布は質が良いのよ。でも… 貴方のは…血がついちゃってるわね」
サリィが苦笑いを浮かべた血は、わたくしの血ではない。
そっと瞳を閉じる。…彼はどうなったのだろう?
アオイ…深い群青色の瞳だった。
「それじゃ、その高価な腕時計とか。高く売れるわよ?」
わたくしは首を横に振る。
「これは売れません」
父からもらったものだ。
サリィが再び苦笑し、肩を軽く上げた。
「皆、形見だとかいろいろ言うけど、死んだら元も子もないのよ?」
「………………………」
サリィが言っている事は正論で、返す言葉がなかった。
でも、売れないものは売れないのだ。
「まぁ、でもそうね。時計だけじゃ足りないしね」
そして差し出される、次の紙。契約書だ。
文字を読む前に、説明してくれる。
「それはリーフの譲渡契約書。つまり個人識別コードを売る」
一瞬耳を疑った。
「リーフを…売る?」
サリィは当たり前のように頷く。
「地上のリーフは高く売れるの。十分ワクチン代にもなるのよ?しかも、半年程度は暮らせるくらいの金額も手元に残る。しかも、貴方みたいに犯罪者でもなく、地上から偶発的に落ちてきた人は地上にリーフ番号も残ったままだしね」
つまり、わたくしの身分証明を売るということだ。
「ですが!リーフを…どうやって!?だって、取れるものではないでしょう?身体に埋め込まれているのに?!」
リーフは生まれてからすぐに、身体のどこかに焼きこませるのだ。熱ではなく電子情報を。
簡単に渡せるようなものではない。
しかしサリィは、こともなげに言う。
「そうよ。だから斬り落とす事になる。身体の一部ごと」
当たり前のように言う彼女に、わたくしは、言葉を失った。
「大抵は手でしょう?犯罪人は斬り落とせない首にも刻まれるから、リーフも売れないけど。貴方は平気でしょう?」
「………………」
わたくしは思わず、リーフのある左の手首を右手で押さえていた。
平気だとか、そう言う問題ではない。
あまりに想像もしていなかった言葉に、思考が追いつかなかった。
そんなわたくしに気がついたのか、それとも、そんな反応に慣れているのか、やはりサリィは苦笑した。
「わかってる。私もこんなこと、本当は言いたくないのよ。でも、ここでは理解して欲しいとは言わない。ただ、ここは生きていくには辛い場所よ」
そんなサリィの瞳は少しだけ悲しんでいるようだった。
「兎に角、まだ時間はあるから、少し考えると良いわ。落ちてきた人は一日だけここに居て良い事になっているから。ただし、一日だけよ」
「一日…」
「ごめんなさいね。決まりなの。一日経ったら、ここを出て行って一人で生きて行ってもらう事になるわ」
そう言われても、わたくしには行く所などない。
「すみません。ならば、地上と連絡を」
「残念ながら、知っているでしょう?地上からは出来ても地下からは出来ない。ここはそう言う所。繋がる回線が、限られた所にしかないのよ」
「……っ!」
「それに、お金も相当かかる。ワクチン以上に」
「そうですか…」
「それに、連絡が取れたところで、地上にはもう戻れない」
「あ…ウイルス…」
そうだった。
わたくしはもう、ウイルスに犯されている。そんなわたくしが地上に戻れるはずも無い。
「ね。急なことで大変だとは思うけど、まずは生きることを考えて」
わたくしはもう、言葉が出なかった。
サリィが行った後、わたくしはとりあえず、空いている部屋の隅に座った。
お父様は…今、どうしているのだろう…。
わたくしを探しているだろうか…それとも、死んだと思っただろうか?
駅での爆発は、確かに凄かった。
実際、あの時あそこで何があったのだろう…。
わからない。
だからわたくしは一度思考を止めた。
そして、気持ちを入れ替えるように部屋を改めて見回した。
部屋にはわたくしと同じように地上から落ちてきた者達で溢れていた。その誰もがわたくしと同じように、書類を眺めていた。
目が合った隣に座っていた中年の女性は、広場にいたとき爆発にあい、落ちたのだという。そのとき、偶然地上の天井を支える柱にひっかかり、永遠階段を下りてきたのだと言う。
柱にひっかからなかった者達は、皆、亡くなったと。
サリィの言うとおりわたくしと同じように駅から落ちてきた者は誰も居ないらしい。何しろ、引っかかる柱などが何も無い場所なのだとか。
それにしても、あの時間。多くの場所で爆発が起こったらしい。
地下階からの攻撃だったのだろうか?
サリィは言葉をにごしていたが…。
わたくしはまたもやそこで思考を止めた。
何しろ今はどうせ考えた所で、答えが出ない。
それよりも考えなければならない事柄がある。
生きる―――
部屋は消毒液のにおいと血のにおいであふれている。
本音を言ってしまえば、吐いてしまいそうだ。
――逃げ出したい。
だが、行く所も無く、事態もよくつかめていないのに…。
今すぐ、家に帰りたい。
涙が出て来そうになるが、必死に耐える。今は、泣き言を言っていられる場合でもないから。
それに、駅の爆発がどうとか言っている場合でもない。
わたくしはまず、自らが生きていくことを考えなければならないのだから。
―――ワクチンをどうするか。
サリィの話では、昔から地上から人が落ちてくることは普通のことで、別に珍しいことでもないという。何しろ犯罪者は、問答無用で地下に送られるのだ。
考えてみれば、地下の方たちからすれば良い迷惑だ。
地下階の者にとってもワクチンは高額で、無償でと言う訳にはいかないのだという。それはそうだ。
サリィは優しく説明してくれたが、周りに居た他の者たちの視線は冷たかった。
差別を繰り返してきた地上の者に、ワクチンを分けたくも無いのが、本音なのかもしれない。
「…………………………………」
地下は酷い扱いを受けている…知っているようで、何も知らなかったのだと…見ようとさえしていなかったのだと、思い知らされた。
いろいろありすぎて、身体が悲鳴を上げている。
時間は既に夜だ。
地下階の為、窓の向こうはいつだって暗闇だが。
兎に角、気を失っていたとはいえ、頭が働かない。
わたくしは、疲れきった身体を癒すために、膝に頭を埋めた。
しかし、すぐに起こされた。
隣の女性の微かな悲鳴でだ。
一体何事かと、慌てて起きて、すぐにその理由を知った。
この部屋から続く隣の部屋の戸に、白衣を着た男が立っていて、その奥には手術用なのだろうが、地上とは大分形の違う大きな刃物や、ノコギリなどが置かれていて……。
わたくしは、動くことが出来なかった。
だが、そんなわたくしの横を男の子が歩いて行った。その手には、書類を持っていて…。
見間違うはずが無い。あの書類だ。譲渡契約書類。
リーフの!
「彼のリーフを取るつもりですか!?」
もう黙ってなどいられなかった。
気がついたときは、わたくしはその白衣を着た男性に声を上げていた。
「取るつもりって…お前も説明きいたんだろ?そいつが選んだことだ」
選んだって…っ!
「彼はまだ10歳にもなっていない!」
「ここでは成人は7歳でする。そいつは立派な大人だ」
「大人って!」
「ではなんだ?お前がこいつのワクチン代を出すか?」
「っ!」
思わずわたくしは眉を歪めた。
「ほらな。出来もせず、地上の奴はすぐに文句だけは一人前に言う。あきれるね」
その通りだった。
彼の言う事は、まったくもって正しくて…。
わたくしは何も反論できないまま、少年に視線を向けると、ただそっと頷かれた。
「………………………………」
再び歩き出した少年の背を見続けることがわたくしはもう、出来なくて。
気がついたときは手が白くなるほど、握り締めていた。
「!」
声にならないならない声がのどを出る。
こんなこと…間違っている。
だって、リーフを捨てると言うことは、自分を捨てると言うことだ。
だと言うのに―――わたくしは……っ!
唇をぎゅっと血が滲むほどかみ締めていた。
* * *
「ゼクスが出てきたと言うことは…我らの行動は全て筒抜けだったということじゃな」
身体の半分を機械に変えた老人が、予想ではなく事実を述べた。
ドクターJ。地下階で地上に対して反抗活動を行っている者ならば、この名を知らぬ者がいない人物だ。
そんなドクターJの言葉をその場に居た誰もが同意した。
「奴ら…全てをワシらのせいにするつもりじゃ。全く」
ドクターJは深く息を吐いてから、目の前に立つヒイロに視線を戻した。
「報告は以上か?」
ヒイロは、ああとだけ短く返事をした。
だから今度はヒイロから聞いた。
「地上から連絡は?」
「02からは定期連絡が入った。じゃが、警戒レベルがあがり、移動が制限され、現在は潜っておる」
02とはヒイロと今回の任務で共に組んでいた者。デュオのことだ。
デュオはヒイロとは違い、地上にいるらしいが、動きが取れないとなれば、ヒイロと大して変わらない。
ドクターJが手をあぐねているのも頷けた。
理解してはいたが、地上を統治し、実質支配するOZはそう簡単にはいかない。
そうとりあえず結論が出ると、ヒイロは報告も済んだことから、部屋を去ろうとすると、別の者から声が上がった。
「戻るのならば、途中で一人、拾って行ってもらいたい人物がいる」
「――誰だ?」
ヒイロは表情も変えずに聞くと、男は書類をファイルの中から取り出した。
「地上からの落下者の中に、ドーリアンの娘が紛れているらしい。至急、探して来い」
男の指示にヒイロの瞳が微かに細められる。
「確かに地下階と関係のあるドーリアンならば問題もあるが、娘だ。確保する理由があるとは思えない。第一、死んでいる可能性の方が高い」
「遺体ならば、それを回収して来い」
ヒイロの眉が寄せられた。
「――何者だ?」
ここは地上ではない。地下階では公的人物だろうが、通常ならば放っておく。運よく生き残っていたとしても、ワクチンを打つ程度だ。
だからヒイロにはわからなかった。
だが、その答えはドクターJから返って。
「探すのは、ドーリアンの娘だからではない」
「では何だ?」
ヒイロの眉が歪められた。
「OZが探しておる」
ヒイロの瞳が少しだけ意外そうに開かれた。
「…OZが?何故?」
「流石の奴らも、そこまではネットには流さん。じゃが、間違いない。奴ら、地下に兵まで送ってくる程じゃ。あの様子じゃ、遺体だったとしても連れ帰るつもりじゃ。先を越されるわけにはいかん」
ドクターJは深く笑みを浮かべた。
「それでか。地上から来た者たちのリーフが未だに端末に流されていないのは」
通常はすぐに、人物確認の照会をするためにリーフはネットを通り、端末に流されるのが今回はそれが来ていなかった。
アナログ。手作業で調べているということだ。
そうしなければ、OZにもこちらの情報がつかまれることになる。
何しろ今回は地上から来た者たちの人数が桁違いの為、本人確認の照会作業をどうしても民間レベルの端末でも行わざるを得ない。
つまり、ネットを通せばOZにそのまま知られることになる。
だから、止めたということだ。
アナログで行えと。
「それで、どこにいるかは掴んでいるのか?」
「報告がまだあがってきてはおらんが、写真とリーフ番号がある」
そして男から渡された書類と写真を見て、ヒイロはすぐに顔を上げた。
「何だ?心当たりでもあるのか?」
「――ああ」
ヒイロは男の問いに、躊躇わずに答えた。
そして、振り返らずに部屋をそのまま出て行った。
2010/9/7