LOVER INDEX
#14星と空とを海で割ったようなプルシャンブルー10
「…ヒイロ」
トレーズとの通信が終り、頭が真っ白になる。
ただ名だけが、…口を出た。
貸し…―――貸しなんて…
力を貸してくれるとは、思ってもいなかった―――。
教会やホワイトファングのヒイロに対する態度は最悪だったから。それなのに…。
「ヒイロ、その…!」
「勘違いするな。別にお前のためにやったわけではない」
「いいえ」
リリーナを見ようともせずに答えるヒイロを構うことなく、そうではないとはっきり否定する。
貸しなど、まさに今更だ。だから、躊躇うこともせずに断言した。
しかし、ヒイロは振り向くこともせず、部屋の外へと向かって歩き出す。
自分とゆっくりと話している時間など無いと。
トレーズ・クシュリナーダに教会とは、ホワイトファングとは、何の関係もないと、あれだけはっきりと告げたのだ。わたくしもヒイロも。
その件もあって、トレーズは列車から手を引いたのだ。
だから、こちらも証明しなければならない。
OZに少しでもつけ込まれる隙を作ってはならない。
教会の船にこれ以上居るわけには行かないという。
方法は全くわからないが、ヒイロは数時間後にはこの船を出る為、準備をしておけと言う。
そんなヒイロを呼び止めようと、尚もリリーナは声を掛けるが止まる気配はまるで無い。
だから、そのまま告げる。少し、大きな声で。
「ありがとうございます」
ヒイロは、既に廊下へと出ていた。
「嘘だな」
部屋を出た途端声を掛けられる。
「いくらお前だって、OZと取引できるような手をそういくつも持っているわけが無い」
断言するようにそう言って来るのは、通信室からやって来たデュオだ。
廊下にそれまで居た筈のラファエルたちもデュオによってなのか、誰もいなかった。
そんな二人だけの会話が続く。
「お前と、一緒にするな」
ヒイロが切り捨てるように告げるが、デュオは気にしない。
「本来ならあれほどの手を、教会やホワイトファングの奴らの為にお前が出してきたこと自体が驚愕すべきことだ」
「―――――――」
「どう考えても、お嬢さんのためだろ?現に、お前はお嬢さんを止める気だって無かった。本気で止める気ならば通信室のお嬢さんが魔導を放った時点で捕らえられたはずだ。そうだろ?」
「どうとでも取ればいい」
ヒイロは大した興味も無いよう歩き続ける。
「そんな、オレには関係ないって顔したって無駄だぜ。他にも、壁に刺されたジェイクが、生きていること時点でおかしいとは思っていたんだ。普段のお前なら間違いなく殺しているだろ?他に廊下で控えていた兵士にしたって同じだ。お前にとって生かす意味が無い」
ヒイロは黙ったまま歩き続け、その後につくようにして歩くデュオは、口の端を僅かに上げながら、物騒なことを平気で告げてくる。
「まぁ、そうだよな。いくらお嬢さんがサンクキングダムのお姫様だとはいえ、共に行動していたお前が、そのお姫さんの関係者を次々と殺していったら、殺された家族とか、関係者とかに良い顔はされねえもんな」
デュオはヒイロが何の反応も示さなくても、気にせず言う。
「今ではないにしても、いつの日かお嬢さんが、ホワイトファングとか聖騎士だとかいったものの力を借りるとき、遺恨を残さないためにあえてお前は殺していないんだ」
そこでようやくヒイロが、足を止め、鋭い視線をデュオに向ける。
「――――何が言いたい」
二人のにらみ合いがしばし続く。
この場にもし、他の誰か居たならば、今すぐにでも殺し合いが始まるのかではないかと、勘違いしてもおかしくないほどの雰囲気だ。
しかし、そんな状況を先に打ち破ったのはデュオだ。
視線を逸らすように瞳を閉じ、屈託も無く笑う。
「別に。ただ、礼を言おうと思っただけださ」
「―――――――」
ヒイロの視線の鋭さは変わらない。
「覚悟していたとは言え、列車にはヘレンと昔から馴染みのある奴らも居た。他にも大勢な。教会を代表して礼を言う。ありがとな」
デュオは何の含みも無く、そう言った。
ヒイロが出て行ったあと、ひとり、翼の水気をタオルで拭く。
羽ばたくようにして水気を飛ばしもする。
ヒイロに、魔導について再び訊かれる前に何としても、魔導を使えるようにしておかねばならないこともあるが、船中怪我人だらけだ。
だというのに、自分の翼のあまりの小ささに上手くタオルを持った手が届かない。
「まったく!」
リリーナは苛立ったようにそう言うと、深々と溜め息をついた。
自分の余りの醜態に涙が出そうになる。
部屋の壁には、もうピクリとも動かない機械人形のクリス。
分かったのは名だけ。自分の無謀な通信により、無駄に死なせてしまった。
OZを相手に、何の引き換えも無く、話し合いで解決するなど初めから不可能だって分かっている。
それでも、動かなければと思った。動かなければと―――。
しかし、自分は結局の所、何もしてはいない。
あのとき、ヒイロが来なかったら…私は戻ると―――EARTHに戻ると答えていた。
間違いなく。
リリーナは唇をギュッと噛締める。
「――――――」
コンコン
そこに控えめだが、ノックの音が部屋に響く。
リリーナは戸のついていないこの部屋の入り口を見ると、そこには、シスターたちが立っていた。
「船の現在の位置は、データーで送ったとおりだ。どれくらいで着く?」
ヒイロは通信室で端末を操作しながらゼロと連絡を取る。
ゼロは現在、別の船に積荷として搭載されている。流石にこの船には持ち込むことは時間的にも状況的にも不可能だったからだ。
するとゼロからは、問題が無いかぎり、5,6時間で、辿り着くと返答があった。
「あと、5,6時間か…何か必要なもんとかあったら言えば、出来る限りそろえるけど?」
デュオが時計を見ながら告げてくるが、ヒイロは必要ないと申し出を断り、端末を操作し続ける。
「へいへいそうですか―――じゃ。この後はどこに行くつもりなんだ?」
続けてヒイロに訊ねたデュオだが、すぐに思い直す。
「そうだったな。行き先はお嬢さんが直前になってからじゃないと言わないもんな。だから、まだ決まってないか」
そんなデュオに対してヒイロが口を開こうとするが、それを止めるようにしてデュオは更に言葉を続ける。
「それじゃ、オレは悪いが一旦ここで別れるわ。カトルにもさっき許可を取った。お嬢さんを護るって仕事の途中だけど一旦、解約するってな」
「このまま聖都に向うというわけか」
「ああ。聖都に行って、今回のこととかこれからの事とか、一回ちゃんと話してくるわ。ヘレンの墓にもよって来たいし」
「…そうか」
ヒイロのその言葉を最後に、静寂が訪れた。
リリーナは驚いたように部屋に現われたシスターたちを見る。
「どうしました?」
「ご出発すると、聞きました。ですから、その準備をお手伝いしようと思いまして」
「手伝い?」
現われたシスターたちは、それぞれいろいろな物を持っている。
「急いで、皆から集めてまいりました」
「姫様に、私達の使い古しなんて…大変恐縮なのですが、それでも!何かして、何かしてさしあげたいのです!」
シスターたちは、吐き出すように言った。
「……恐縮なんて…」
あまりに予想外の自体にリリーナは言葉が上手く出てこない。
「それよりも、そんな大事な物を、わたくしが頂いても宜しいのでしょうか?」
戸惑い続けるリリーナに対し、シスターたちは笑顔で次々と訴えてくる。
「勿論でございます。その為に集めてきたのです」
「これは法皇様が直々に聖魔導をこめた衣です。姫様にはサイズが少し大きいと思われますが、すぐにお直しいたします」
「この手袋は火の精霊の加護を受けており、これからの寒さに十分耐えられるものです」
唖然とするリリーナをよそにシスターたちは次々と持ってきたものを広げ始める。
「さ、翼の手入れも途中でしたから、急いで仕上げましょう」
シスター達の言葉に、何も翼まで、とびくりとするリリーナだが、反論する間も無い。シスター達は、てきぱきと動き回るのであった。
そして、時間は見る見るうちに過ぎていった―――
数分前に列車から負傷者はいるものの、皆無事だと連絡が入った。
カーンズからは、事情を詳しく聞かせろと、何度も連絡が入ってはいるが、今の自分には答える気には全くならなかった。
自分自身の整理がつくまでは、駄目だ。
今回のことを受け入れることなど、出来るはずが無い。
そう、先程から自問自答を続けるのは、ラファエルだ。
ラファエルは事務連絡等の作業がひと段落し、ようやく先程のヒイロとの闘いのときに負った怪我を治療するために、医療室にやってきたのだ。
先程の通信が終了した直後よりは、空いているとは言え、それでも、医療室は怪我人で溢れていた。そこいら中でシスターたちが走り回っている。
だから、比較的怪我の少ないラファエルはおとなしく部屋の隅に置かれている椅子に腰をかける。
医療室にいる誰もが、自らのことで精一杯でラファエルが来たことに注意をはらう者はいない。
熱がある者。骨が砕けている者。血が溢れ出る者。皆、手一杯だ。
ラファエルは思う。まるで戦場の病院―――野戦病院ではないかと。
実際の野戦病院を見たことが無いわけではない。もっと酷い状況だって数多く見てきた。それでも、ラファエルは瞼を深く閉じる。まるで、これ以上見ることが耐えられないことかのように。
「…………………………」
負けた。
完膚なきまでの敗北だ。
それは、剣技とか魔導の差とかそう言うものではなく、全てにおいての敗北―――。
全てを捨てる覚悟だった…はずだ。
それでも、列車が助かった今、感じるこの安堵感。
そして、それと引き換えに失わなければならない、言いようの無い消失感。
姫は後、数時間も経たないうちに船を発つと言う。
OZとの先程の契約で、これは絶対だという。彼らと渡り合うにはどんな弱みも見せてはいけない。自分だってそんなことは分かってはいる。分かってはいるつもりだった。
心がどうしようもなく乱れ続けている。
姫が船を発つと知ってから大分経ったというのに、おさまる気配はまるで無い―――。
何故、姫の横に居るのが自分ではないのだろう―――。
初めて姫のその姿を見たとき、あまりの翼の痛々しさに涙が出そうになった。
護って差し上げたいと、心から誓っていた。
EARTHから一人、ボロボロになって出てきたミリアルド様がずっと、気にかけていた姫。
EARTHから自分が出てきてしまったために、妹がどんな目にあっているかと―――ひとり、苦しんでいたミリアルド様を自分は知っている。他の誰も知りはしないだろうが、あの方の傍に居た自分は知っている。
自分みたいな出生が一切不明の者でも、あの方は他の誰とも差別することなく対等に扱ってくださった、最初の人だ。EARTHを想う気持ちは同じだと―――。
その時の気持ちは、表現のしようが無い―――。
だから、尚更、姫の横に居るのが自分であって欲しかった。
どうしようもないほどに悔しい。
ヒイロ・ユイ。
自分の右腕を義手にした張本人。そして、今回のこの様。
自分は何も進歩していない。
「あーあ。相変わらず、暗そうな顔してんな、お前は」
「!」
ラファエルは勢いよく声のした方向に目を向けると、ベッドで上半身を起こしたジェイクが笑顔を向けていた。
この病室に居る者の中でもジェイクは一番の重傷者だと言える。
「悩んだって、状況は変わらない」
「だが!―――……!」
軽口なジェイクに対し、ラファエルは反論しようとして直に口を閉じた。全く、その通りだからだ。反論した所で、姫が出て行くことに何の変化も無い。
そんな黙ってしまったラファエルを見て、ジェイクは、はあと大きく息をつく。
二人のことなど誰も気に留めず、病室内はそこいら中で治療が続けられている。
ジェイクはラファエルに視線を再び移す。
こんな状況でもラファエルはいつだって正装姿だ。呆れることに、外套までしっかり身につけている。ただ、義手がすっかり取り外された右肩から下は、何も無い。
この姿をみて、ラファエルはハンデを負っていると、初めて実感することが出来る。普段は本当にそんな物をまったく感じさせない奴。同情されることを嫌う。同情などされていては、姫を護ることなど出来ないからと―――。
正直、ラファエルは好きじゃないが、殆ど同期の自分は奴と同じ道を歩んできた。だから、あいつの想いは知っている―――。それこそ、呆れてものが言えないほどに。今時一途過ぎるだろう?っと、どれだけ嘲笑したか分からないほどに―――。
ジェイクは視線をラファエルから外すと、先程よりも大きく息を吐いた。
流石にこれは落ち込むか、とジェイクは包帯が巻かれた自らの左手を眺めながら思う。
自分だって大概―――ボロボロだ。
「全く…――」
そうやって、ぼやいた直後、彼女と目が合った。
「!」
すっかり、身支度を整えたと思われるリリーナが病室の扉の前に居た。
リリーナの存在に、ラファエルも部屋にいる者の全ても、ようやく気がついたようだ。
「貴方はここに居ると教えていただいて」
ラファエルはすぐに立ち上がり、彼女の元へ歩き出そうとするが、リリーナがそれを制する。自分が行くと。
そしてリリーナは辺りをゆっくりと見回しながら、ラファエルの下へと向った。
病室は既に怪我人で溢れているため、そんな彼らを避けながらゆっくりとリリーナは歩く。
ラファエルもリリーナが来た理由を察しているようで、静かに来るのを待った。
「もうすぐ、発ちます。その前にちゃんと話しておこうと思いまして」
「…刀のことですね」
どこか、悔やむように静かな声で言ってくるラファエルに対し、リリーナもただ頷く。
「申し訳ありません」
ラファエルは突然そう言うと、リリーナの前で肩膝を地面につき深々と頭を下げた。ラファエルの怪我の状態で、この体勢はとても辛いが、そんな様子は微塵も見せることは無い。
「ラファエル!?どうしたのですか。頭を上げてください」
突然の行動にリリーナは唖然とするが、ラファエルは構わずに続ける。搾り出すような、苦しそうな声で。
「本心では、お返ししたくはありません。絶対に!ついて来いとおっしゃられれば、全てを捨てついて行く覚悟だって自分にはあります。…ですが、実際はこの有り様です。戦いの最中とはいえ、あろうことか、自らの手で貴方様を斬るところだった」
「あれは、わたくしもいけないのです。貴方だけのせいではありません」
ヒイロとラファエルの戦いを止めるために、無理矢理二人の間に割って入ったせいだ。そのためにヒイロの手に深々と傷を負わせてしまった。
「いいですか。そんなことよりもまず貴方はその怪我を早く治しなさい。それが一番の最重要事項でしょう?」
「はい」
「確かにわたくしは、今は行きます。ですが、貴方方と出会えたことをわたくしは幸せに思います。とても」
リリーナはゆっくりと辺りを見回しながら静かに語り続け、その場にいる者も静かに耳を傾けている。
「見てください、この服。シスターたちが寒いからと急いで、自分たちのものから集めてきてくださったのです。そして、直にわたくし用にと、裾や袖も直して下さったから、ほらピッタリ」
リリーナは自らの服を皆に見せるように両腕を広げた。
それでもラファエルは顔を上げようとせず、垂れたままだ。
「ラファエル。心配はいりません。わたくしも安易に、刀を使おうとは考えてはいません」
「しかしそれは、使うこともあり得るという事です」
リリーナの言葉に対し、ラファエルは即座に反論する。
これではまるで、子供だ。どうしようもない、ただの我侭な子供と同じではないかと、ラファエルは思うが、それでも、譲れないのだ。これだけは譲れない。譲りたくないのだと。
唇を血が滲むほどの強さで噛んだ。
しかし、リリーナは落ち着いた様子で静かに語る。
「そうですね。ですが、それが王としての責任だとわたくしは考えております」
室内にリリーナの声が静かに響き、しばしの静寂が流れた。
響く音は、治療を続ける器具の音だけだ。
誰も何も話すこともしない。リリーナもそれ以上は何も言うことはしなかった。
ラファエルが自分から動くのをただ待った。
ゆっくりと―――急くことなく。
そうして、ラファエルは動く。
申し訳ありませんとの言葉と共に、頭を垂れたまま、刀をリリーナに差し出す。
それは自らが納得した上での行動かは分からないが、それでも、自らの中で何かと決着をつけての行動だということは十分に判る。
頭を垂れたままのラファエルが見詰める床には、ポタリポタリと雫が静かに落ち続けた。
リリーナはその様子を静かに見つめる。
そして、ゆっくりと両膝を床につけると、ラファエルから丁重に刀を受け取り、両腕でじっくりと感触を確かめるようにして、深々と息を吐いた。
「ありがとうございます。ラファエル」
しかし、ラファエルは何も答えようとはしない。
だからリリーナはゆっくりと、言いきかせる様に続ける。
「………………………」
「ラファエル、聞いてください」
「…はい」
「わたくしはこの先、サンクキングダムへ向います。本来の」
リリーナは本来と言う言葉を僅かに強調させる。
その言葉に、その場に居る誰もが不思議そうな表情を浮かべている。サンクキングダムといえば、EARTHだ。現在はOZに占拠されてはいるが、サンクキングダムといえば、そこを指す。
ジェイクでさえ、その言葉の意味を図りかねている。
しかし、ラファエルはそうではないようだ。
「貴方にはこれだけで十分でしょう、ラファエル?」
リリーナは確認するようにそう言うと、微笑を浮かべた。
「共に行くことだけが、全てではありません。わたくしはもう、貴方のことは止めません。だから一刻も早く、傷を腕をしっかりと治してください。そして、わたくしの力になってください」
そんなリリーナの言葉にラファエルは涙を振り切るようにして顔を勢いよく上げる。
リリーナが目の前に居る。
視線は自分の方が上だ。
片膝を床につけている自分と、両膝をつけている姫。
再確認させられる。腕も足も細く、精巧に出来たビスクドールの様な美しい姫。
右手に巻かれた包帯が痛々しくてどうしようもない。
どう考えても、何度考えようと、戦場などとは似つかわしいとは思えない。
それでも、それを、止めることの出来ない自分の無力さ。
だから、はっきりと答えた。
「はい。確かに、了承いたしました。必ず。必ず!」
ラファエルは何度も何度も言う。
そんな様子にリリーナも、少しだけ安堵の笑みを浮かべると、そっとラファエルの頬に手を添え、そのまま彼の額に優しく口付ける。
「!」
直後、ラファエルの全身がびくりとするがリリーナは瞳を閉じたまま、口付ける。
その後リリーナは、出発まではまだあると、病室に居る怪我人たちの治療を買って出た。
誰もが、そんなことよりも休んで欲しいと断っては来たが、リリーナは先程、ヒイロとラファエルを止めてくれた感謝の気持ちだと考えてくれれば良いから気にするなと、次々と彼らの傷を魔導で治療し続けた。
勿論その中には、最重傷者であるジェイクも含まれている。
だが―――
「俺には触って欲しくない。姫君」
ジェイクは、どこか嫌味な笑顔でそんなことを言ってくる。
「何故ですか?」
リリーナは本当に不思議そうに聞き返す。
だから、より一層ジェイクの苛立ちはつのる。
「何故?んな事、分かるだろう?これ以上、世話になりたくないんだよ!それに、自分で怪我をさせた相手に治してもらうなんて、これ以上の屈辱は無い。しかも、その相手は自らの傷は、魔導で治せないときてる。絶対お断りだ」
「まあ、確かに、貴方の言うことも分からなくはありません」
一気にまくし立てるジェイクに対し、リリーナはどこまでもあっけらかんと答える。
「分かれよ!ったく…ほら、さっさと行っちまえよ!迎えも来てるよーだ」
「迎え?」
リリーナはジェイクの向ける、鋭い視線の先を辿ると、そこにはヒイロが居た。
「ただでさえ、あんたを聖都に連れて行けないってことで、いらつくってのに、よりにもよってその相手が、ひとの翼を切り落とした野郎ときている」
ジェイクは本当に忌々しそうに言う。
義手や義足などとは違い、切り落とされた翼は義肢といったものが存在しない。つまり、翼を失った物は二度と空を飛ぶことは不可能だということだ。
それを理解しているリリーナは悲しそうな表情でジェイクを見る。
「まあ、今回はおとなしく手を引いてやるよ。それに、心配しないでも、どうせすぐにまたさらいに行くことになるさ。カーンズ様もオレも諦めが悪い性質だ」
悪びれる様子もなく、血の気の引いた表情でそんな口を叩くジェイクに対し、後ろで黙って聴き続けるラファエルは、今すぐにでも一発殴ってやりたい気を抑えるのに必死だ。
しかし、そんなジェイクの様子にリリーナは軽く笑みを浮かべる。
「フフ。そうですか。確かにそれだけ元気ならば、そこまで心配は必要なさそうですが…わたくしもあまり聞分けが良い方ではなくて―――」
リリーナはそう言うと、包帯を巻いたままの右腕を胸の辺りで僅かに振ると、さっさと立ち上がった。
直後――
「おい!」
即座に異変を察し、声を荒げるジェイクだが、リリーナはまるで気にしないようにさっさと扉に向って歩き出す。
「では、そろそろ行きます。皆様、本当にありがとうございます。ラファエルも。全てが終わったら、必ず聖都リーブラに行くとお伝えください」
「はい。お気をつけて。必ずやお約束は―――」
ラファエルをはじめ、その場に居る多くの動ける兵士たちは片膝を床につけ、深々と頭を下げてきた。動けない者たちもその場で、深々と頭を下げる。
見送りは、ヒイロが禁じたのだ。
この船が聖都に辿り着いた後、OZによって、何かしら取調べがあることは明白であるため、ならば、自分たちがこの船から出る手段をはじめから知らない方が良いとの理由で。
「本当に許せねえ!こら!おい!!」
そんな中、変わらずに怒り心頭と言った感じで怒鳴り散らしてくるジェイク。
最後、リリーナがジェイクの言葉に従わず、魔導を使ったことが余程頭にきているようだ。
ただ、魔導にも限界はある。
魔導で怪我全てが一気に、治療できるというものではない。
明らかにジェイクの怪我は何日も何日もかけ、治療をしていく類のものだ。だから、魔導を使ったからといって、突然、ベットから立ち上がれるというものでもない。
それでもリリーナの魔導は他の誰の者よりも良く効いた。
リリーナが病室の戸に辿り着いても、ジェイクの怒鳴り声はまだ続いている。
だからリリーナは振り返ることはせず、どこか悪戯っぽく告げる。
「ジェイク。初めにも言った筈です。貴方と話している時間は無いと」
「な!?」
「どうしても話したいというのであれば、私の目の前に来て話なさい」
驚愕するジェイクを放ったまま、リリーナはどこまでも挑発するように告げる。
「一度その、高慢ちきな鼻を折ってやりてぇ!!」
ジェイクがどれだけ罵倒を浴びせかけようが、リリーナはクスクスと声を漏らすだけで、振り返ろうともしない。どうしようもないほどに、憎らしい。
しかし、不意に言われた次の言葉で全てが吹っ飛んでしまった。
「確かに、許せないことも沢山ありますが。それでも、ジェイク…。先程は本当に助かりました。ありがとうございます」
「!」
「それでは、皆様。また―――」
そうしてリリーナは今度こそ、立ち止まることなく行ってしまった。
リリーナが去ると病室は途端に静寂が訪れた。
誰もが、本の少し前までは確かにそこに居た、彼女の気配を壊したくは無いのだ。
最も悪態をついていたジェイクでさえ、しばらくの間、リリーナが去った戸を眺めていた。
船内から甲板に出ると誰も居なかった。
彼らの見送りは全ての者が禁じられていたためだ。
それは作業員とは言え、例外ではない。
だから、甲板にはわたくしとヒイロの二人だけだ。
ヒイロは腕時計を見ながら辺りを確認している。
どうやら、潮の関係で少し遅れそうだと告げられた。
だから、わたくし達は海でも見ながらのんびりと待つことにした。
時折、冷たい風が吹いてくるが、神父様とシスター達から頂いた服のおかげか、全く寒くは無い。膝の辺りまである神父様の僧服を直したコートはとても暖かい。
ちらりと、横に居るヒイロをリリーナは眺める。
やはり自分と同じような、膝の辺りまである黒いコートを羽織っている。
これから季節は冬に向う。薄手というわけにはいかない。
リリーナは視線を目の前の大海原へ戻す。
船でやるべき、わたくしの用事は全て済ませた。
時間が無い中でも、出来る限り多くのシスターや神父、兵士たちに感謝を述べてきた。ラファエルやジェイクにも出来る限り、言いたいことは伝えた。
大切な刀もしっかりと受け取ってきた。
「…………………………」
先程から、どうでもいいことばかりが浮かぶ。
わかっている。
本当に考えたいことはそうではない。
言いたいことはそうではない。
何から言えば、訊けば良いのか分からないのが本当。
しかし、考えてみればどうせ全て訊くのだ。
だから、心を決める。
視線は大海原のまま。
「ヒイロ」
リリーナの声はやはり、よく通る。
「列車でEARTHに行ったと、聞きました」
「…………………」
「その…恩赦の話を、貴方から全く聞いていなかったから―――知ったあとも、貴方はどう判断しているのか等、何となく訊くタイミングをなかなか計れなくて」
ヒイロは僅かに視線を海からリリーナへと移す。
「ですが、そんな恩赦の話も、今ではもう無効になってしまった」
教会の列車を救う為にヒイロが取った行動は、それほどOZに対して打撃を与えた。
そんなことをしたヒイロに対して、未だに恩赦を与える程OZは寛容ではないだろう。
その恩赦が初めから機能していたのかどうかは既に、どうでもいい話となってしまったが、全てわたくしのせいだ―――。
「元から受けるつもりなど無いのだから、どうでもいいことだ――」
「でも、受ければ無罪放免になった」
「恩赦を受けた方が良かったみたいな言い草だな?」
「そうなのかもしれません」
「…何が言いたいんだ、お前は?」
ヒイロはリリーナの言おうとしていることを図りかねた。
そう言う意味では、リリーナはOZの非道さを知っている。一般の者達よりも遥かに。そんなOZの恩赦など、どれだけの対価を要求されるか、そして、どれほど信用なら無いかなど、分かっている筈だ。
だからヒイロにはわからない。
OZの恩赦にこだわる理由が。
恩赦を受けろということは、つまりそれは、自分をOZに差し出すことを意味していることがわからない彼女ではないはずだ。
それを、知った上で勧めるリリーナ。
リリーナは言葉を選ぶようにしてゆっくりと話し続ける。
「貴方はそれだけの権利があるということです。それだけのことを、わたくしはして頂いている」
リリーナは思い出すようにゆっくりと瞳を閉じる。
「リリーナ…」
リリーナは一息つくと、ゆっくりと視線をヒイロへと移し、瞳が合う。
「恩赦の話を聞いて、少なからず動揺も驚きもしました。それは、受けるとか受けないとかいったことではなく、恩赦の話をされるまで、わたくしは貴方の現在の状況を知ろうとしなかったことです。世界から追い詰められている立場に居ることに気がつこうとしなかった自分に対し、怒りを通り越し、呆れもしました」
「…お前に心配されるとはな。だが、恩赦の話しもそうだが、俺の現在の状況などお前に話す気などない上、知ってもらおうとも考えていない。だからお前の考え自体、無意味だ」
ヒイロは途中、リリーナの瞳が揺れたのが分かったが、容赦なくリリーナの想いを切り捨てる。
お前を当てになどしていないと――――。
それでも、リリーナは言い募る。
「サンクキングダムにだって友人はおります。確かに、OZに比べれば、大した力しかないのかもしれませんし、わたくし自身、実際、出会ったことの無い方ばかりで、力を貸していただけるかどうかも正直な所分かりません。それでも、わたくしは―――」
「悪いが、そんな条件では話を聞く気すら無い」
ばっさりと切り捨ててくるヒイロの言葉に、傷つかないかといえば嘘だ。
しかも、ヒイロの言うことは真実だ。
酷い条件だ。
だが、リリーナの瞳は力を持ってまっすぐにヒイロを見る。
「…それでも、せめて、言って欲しかった。恩赦の話だって、現在の状況だって、貸しだなんて――。わたくしに出来ることがあるのならばしたい。いえ、させて欲しい。それとも、貴方にとってわたくしは、そこまで信用なら無い存在なのでしょうか」
最後の方は、怒っているのか、悲しんでいるのか、声は微かにかすれていた。
そして、そんな彼女を見るヒイロの瞳は何かを思うように、僅かに細められる。
「………そう言う、お前はどうなんだ?」
ヒイロのその声にも、話すその表情にも一切の感情を見受けることが出来ない。
ただ、まっすぐに射るように見詰めてくるプルシャンブルーの視線だけが逃げることを許さない光を放っている。
リリーナの方は突然の言葉に驚きを隠せずにいる。
「…わたくしは…」
「隠し事だらけだな。俺の方はそれで一向に構わない。元々そう言う契約だ」
どこまでも切り捨てるように告げてくるヒイロの言葉に、リリーナの瞳は悲しむように僅かに揺れる。
その様子にヒイロは思う。
似ていると。
リリーナと旅を始め、最初の街でのことと。
下がれといった言葉に従わず、ただ切りつけられたあいつ。
無謀なあいつに怒りをぶつけたときと―――。
だが、今回はそれよりも更に酷い。
あのときとは違い、今の己の怒りは理不尽そのもの。
確かに、頭の一部の冷静などこかでは、彼女は何も悪くないと認識できてさえいる。
ただ、それが分かっていて、止められない程の己の醜態。
ラファエルの剣を受け止めたときに出来た傷が、開くことにすら気がつかないほどにぎゅっと握り締めている己の手。
何かを言おうとするリリーナの言葉を遮ってまで一気に畳み掛ける様に告げる。
「先程、俺が押さえつけたとき、お前は、殆ど魔導が使えない状態だったな」
「!」
リリーナが一瞬びくりとする。
機械人形に頼み、EARTHと連絡を取っていたときのことだ。
「どんな事情があるかは知らないが、所詮俺とお前はその程度の関係だ。お前を信じるとか、信じないという問題ではない。俺が言わない?よく言う」
ヒイロは一部の隙も許さないように、リリーナに吐き捨てるように告げる。
「それは…」
リリーナは言いかけて、焦ったように唇をぎゅっと噛む。
全くだ。ヒイロの言うことは正しい。
自分はこれだけ…いや、真実隠し事だらけではないか。
それではいくらなんでも調子が良すぎるというものだ。
彼の言葉は、鋭くリリーナをつく。
それでも、これは駄目だ。水が苦手なのだということは駄目だ。
命に関わってくる。
わたくしが、王ではなく、ただの…そうだ。ラファエルも言った、少女だったならば。
この命が…自分だけの物ならば…。
リリーナは、ギュッと唇を硬く噛む。
そんな黙ってしまったリリーナに対してもヒイロは更に告げる。
「その右手の怪我だってそうだ。ガラスのコップ?あの宿にはそんな物は無い。言い始めたらそれこそ、きりが無い」
リリーナの瞳が大きく見開く。
だって、あれは―――。
そこまで考えて、ふと思う。言い訳だらけの自分。
ヒイロの言葉に、言い訳だらけだ。
「別に攻めているわけではない。事実だ」
リリーナにヒイロは、ただ告げた。
そして、その言葉を最後に、ヒイロはそれ以上言うことは無いとばかりに、視線をリリーナから外す。
そんなヒイロをリリーナはどこか不思議な面持ちで、静かに見詰める。
ヒイロの表情は言葉とはひどく対照的で、傷ついているとさえ取れる表情を、浮かべている。
自分たちの関係は所詮そんな物と、ある意味、潔いとすら感じるほど、きっぱりと切り捨てる彼――――
それならば、何故、そんな表情を浮かべているの…―――?
途端に耐えられなくなり、逃げるようにして瞳を閉じた。
リリーナは瞳を閉じたまま、自問自答を繰り返す。
自分が王ではなく、ただの人だったならば言うのか?
ならば、王と人の、その差は何?
差は星の数ほどありそうで、根本は同じとさえ感じる。
事実、何も変わらないとさえ、本心ではそう感じている。
それでも、あえて別として捉える真意は。
逃げない為だ。
王国から、OZから、世界から、何よりも自分から逃げ出さないためだ。
やはり、死ぬわけには、倒れるわけには、逃げるわけには行かないのだ。
この命が自分だけの物だったならば、言うのか?
ならば、今、この命は一体誰の物なのか…。
国も無く、待つ人も居ない自分の命は。
リリーナは、ギュッと唇を硬く噛む。
わたくしは―――……
リリーナはすうっと、瞳を開ける。
目の前には厚く覆った雲に、どこまでも続くかのような大海原。
ヒイロはあれからぴくりとも動くことも無く、ただ、海に、空に目を向ける。
だが、風景など一切頭に入ってなどこない。
船にあたる波の音がやけに大きく感じる。
うるさい。
黙れと怒鳴りだしたい程の衝動。
まるで、非難されているとさえ、錯覚しそうなほどにうるさい、波や風。
世界を無心で愛する彼女は、世界からも愛されている。
ラファエルが、刀をリリーナの手に渡すことをあそこまで拒む理由を知らない。
所詮お前はその程度だと、事実を突きつけられたあの晩。
聖騎士との差をどうしようもないほどに見せ付けられた。
初めよりもずっと強く握り締める手の平は、傷が開いたのか、血が滲む。
ズキズキズキズキズキズキ
こんな痛みでは、頭がさえることも無い。
そんなとき、突然、現実に戻された。
それも、予想すらしない言葉で―――
「貴方は泳ぐことが出来ますか?」
見ると、リリーナはゆっくりと船の淵に近づくと、そっと海面を覗き込んでいる。しかし、すぐに駄目だとでも言うように、頭を数回横に振ると、俺の方へと体ごと向きを変える。
「わたくしは泳ぐことが出来ません」
ヒイロはリリーナの言葉に眉を寄せる。
だから何だ、と――。
しかし、リリーナはそんなヒイロの視線に全く気がつかないように、話を更に続ける。
「元々、羽ビトは泳ぐことが出来るのでしょうか?わたくしにはとても無理そうです。翼が水を吸うと、とても重くて。EARTHでも一度、池に入ったことがあったから」
リリーナはそれが、一般にプールと呼ばれていることを知らない。更に、その入った理由がOZの実験であったこともあえて告げることはしないし、死に掛けたなどもっての他だ。
この話には関係のないことだから。
「別に、泳いでこの海を渡ろうとしているわけではない」
冷たく告げるヒイロに対し、リリーナはそうではないのだと言いたげに軽く首を横に振る。
「………………………」
ヒイロは自体すら把握することがひどく困難な状態だ。
ならば、何を言いたいのか―――
大体、ヒイロは泳げる羽ビトを、それこそ数多く知ってはいるが、リリーナが泳げなかろうがそれこそ、今更だ。
OZで、そんな自由は無い。
リリーナは僅かに微笑む。
「ヒイロ 貴方は何故――ここにいてくださるのですか?」
恩赦も受けず、OZを真の意味でも怒らせ―――教会やホワイトファングまでをも、助け――共に居てくれるのか。
ヒイロの瞳が本当に僅かだが、見開かれる。
「そのことについて沢山考えました。しかし、考え始めたらきりが無く。本当に不思議で。わたくしと共に居ることは、安全とは言えませんから」
ヒイロは黙ったままで、波の音だけが辺りに響く。
リリーナもヒイロの返答を期待していたわけではないので気にすることは無い。
ただ、それでも、きいて見たかったのだ。
だが、返答はある。
「ピアス」
淡々と、一言。
だが、そんなことはどうでもいいことだった。問題は中身だ。
リリーナは信じられないといった感じで、即座に自分の右耳に触れる。
「仕事なのだろう?」
「…………………」
たしかに、いい訳じみていることは否めない。
それでも、居ろと、行くなと。あれだけ縛り付けておいてよく言う。
ヒイロは言う。どこか疲れた様に。
事実、リリーナから見ても、疲れきった感のあるヒイロ。
殆ど丸二日以上、徹夜状態が続き、あれだけ動かされれば流石に疲労もやって来るというものだ。
そんなヒイロの様子にリリーナは驚きつつも、とても穏やかな表情で見詰める。
目を僅かに伏せ、瞳は揺らぐ。
ヒイロに言えば、明らかに嫌そうな顔をされるだろうから、ひとり、心で思う。
優しく―――暖かいと。
もういい。
自分の一番近くにいる人を、信じる、頼ることも出来なくて、世界から戦いを、悲しみを、終わらせることなど不可能だから。
リリーナの中で何かが変わる。
一歩二歩とヒイロの方へと近づく。
そして、ヒイロの許可を取ることなく、包帯を巻かれた手を両手で包むようにして取る。
触れるなとでも言いたげな視線をヒイロは向けてくる。
「貴方の巻く包帯は本当に解けませんよね。緩む事だって無い。教会の方にもわたくしの右手の治療をして頂いたのですが、本当にそれを感じました」
リリーナはヒイロの手を見る。包帯には血が滲んでいる。
「確かに、わたくしはガラスのコップで怪我をしたわけではなく、聖堂にあった鏡を割ってしまって」
「………何故」
「そのときに恩赦の話を聞いて、兎に角驚いて。ひどいことにそれからというもの、人の話など、全く耳に入らなくなってしまって。少し気持ちを入れ替えるためにも、レストルームに行ったのですが、そこの壁にあった鏡に軽く手をついたはずなのですが、それはもう見る影も無く。よく思い出してみれば、そのときから魔導の制御がよく出来ていなかったのかもしれませんね」
リリーナの声はとても落ち着いている。だが、その一方で、どこか危うい。
そんな様子に、ヒイロは即座に悟る。
彼女の中で何かが変わったのだと――。
「昔からそうなんです。部屋にやって来た鳥と遊んだり、特定の機械人形に懐いたりしてしまうと、大抵ある日突然。居なくなってしまって。そんな日とあの日はとてもよく似ている」
リリーナはヒイロの手の平に巻かれている包帯を丁寧に解き、ヒイロは黙ったままその様子を眺める。
「わたくしは、恩赦の話を知って、サリィに話を聞いて、デュオにもいろいろ聞いて、八割くらい貴方との別れを覚悟していました―――」
包帯を全て解くと、優しくその傷口に自らの指を当て、ふっと力を込める。
ヒイロは手の平の痛みがすうっと退いていくのが分かる。
「わたくしにとって別れはいつだって唐突で、突然で」
だから、悲しみはとてもゆったりとやって来た。OZにそれを知られるのが嫌で。それでも、無関心を装うのが精一杯だった、あの頃。
傷がゆっくりと癒され始めているヒイロの手の平を暖めるかのように、優しく両手で包み込むリリーナ。
そしてはっきりと、告げる
「ヒイロ。わたくしは確かに、貴方が望むような強力な後ろ盾も、保障も、何も約束できません。ですが、約束できることもあります。わたくしです」
リリーナは瞳を逸らすことなくヒイロをまっすぐに見詰める。
「何かあったら、迷わずわたくしを差し出せばいい」
否定することを許さないほどの強い力で告げるリリーナに、ヒイロは脳天から叩きつけられるような衝撃を受ける。
「貴方も初めから言っていたことです。勿論…それにわたくしは抵抗せざるを得ません」
どんなに一人の国などあってないようなものだと、抵抗しようが、それでもわたくしは王だから。
「―――もういい」
ヒイロは吐き出すように告げるが、リリーナは聞いて欲しいと、ただ願う。
どんなときだって、自らが納得しないことには絶対に譲ることが無い。ヒイロは嫌というほど、そのことを知っている。
「わたくしを捕らえるとき、貴方ならばどうしますか?OZのように、多くの騎士や魔導士たちと協力するのが最も確実な方法でしょうか」
ヒイロは答えない。
だが、あのOZが取っている作戦なのだ。最も有効な手段なのだろう。
だから、リリーナは言う。どこか諦めているような様子で。
「おそらく、世界中の誰もがそう考えるのかもしれませんが、そんなものは必要ないのです。わたくしを捕らえるなんて、本当はひどく簡単で。そう、言ってしまえば、バケツ一杯の水さえあれば十分でしょう」
「………………………」
あまりに、予想もしなかったリリーナの話に頭が真っ白になり、それと同時に、この話の重みを知る。
そんなヒイロの様子をリリーナも感じる。
だから、リリーナは極上の笑みを浮かべる。
自分は信じているのだと、言わんばかりに。
リリーナの頬は甲板に出てきた時よりも、ずっと寒さで赤い。
「そう。わたくしは、翼が水を吸うほどまでに濡れると、魔導がとても不安定になるのです」
「…………………………」
ヒイロは思う。
それならば、今までの間、リリーナの翼が濡れたことはそれこそ数知れないほどだ。池に突っ込んだ折、川に突っ込んでいた折、日々のシャワーなど、様々だ。
それでも、気がつくことが無かった、この事実。
それは、彼女が普段から魔導を乱用することが無いからだ。それどころか、リリーナはどんな些細なことだろうと、魔導を使うことが無い。
好きだからといって、火がつかなかろうが、永遠寒い中マッチをすっていたあいつ。気がつくわけがない。
隠し事が、あれだけ下手なくせに、本当に重要なことは、悟らせることすら許さないリリーナ。
「ヒイロ」
彼女しか発することが無い、不思議なイントネーション。
「約束して頂戴。わたくしに黙って、どこにも行かないと」
しばしの静寂。
それでもリリーナは怯むことはせず、じっと、ヒイロを見つめ――。
そして―――
それからしばらくして、ようやく、待っていた船が姿を現す。
それは、見るからにボロボロで、リリーナがボソリと幽霊船と呟いたことをヒイロは知っている。
確かに、同感だとヒイロも思う。帆もつぎはぎだらけで、汚れも本当に酷い。
本当に、あのバートン財団の船なのかと疑いたくもなるが、事実なのだから仕方が無い。とある知り合いのつてで、今回のことを頼むことが出来たのだ。
ゼロが積まれている。
本来ならば、今回のことはもっとこの船が近づいてから、行動を起こしたかったのだが、こうなってしまったのだから仕方が無い。あの場で部屋に入っていかなければ、リリーナの傷は右の指だけでは済まなかっただろうから。
魔導が使えない―――つまり。あの場でのあいつは全力で行く所か、魔導を使うことすら出来なかったっということだ。
あちらの船では、こちらの船とを繋ぐための板を用意している。
ようやくこの船を出られる。
正直これ以上は居たくは無い。
リリーナを見ると、少し前にやって来たデュオと話をしている。
水。
相当の覚悟を持って告げられたということは理解している。
まさか、言ってくるとは考えていなかった。
あまりの潔さに、驚愕する。
それは、寒気を覚えるほどに。
その行動は命を粗末に扱っているわけではなく―――人を信じる、あいつの性分。
人を魅了して止まない、彼女の気質そのもの。
そっと、肩に触れる。肩の傷も、彼女によって治療された。
ヒイロは息を吐く。
それでも、あいつにはまだ、数多くの秘密がある。
俺の目からはどう見ても壊れているとしか判断のつかない機械人形を使用して、EARTHに連絡を取ったあいつ。
機械と魔導とは、本来、一切無縁の関係だ。そんな魔導と機械人形を応用して造られているものが、通称『Gシリーズ』なのだ。現代の技術では再生不可能なもの。
だから、いくらリリーナが魔導を得意とするとは言え、Gでもない機械人形を魔導で、どうにかするということは在り得ないのだ。
他にも刀や行き先…それこそきりが無い。
だが、もういい。
この先は、自ら調べればいいことだ。
あいつの口を割らせるような真似は、二度としたくはない。
二度と―――。
激情に駆られて生み出した今回の結果―――。
頭を冷やし、常に周りに気を張れ。
他の誰よ先を読め。何倍も。
ヒイロは、厚く雲の張った空をじっと見上げた―――。
「ラファエル」
リリーナが去ってからしばらくしたあるとき、突然ジェイクがベットに寝そべったまま呟くように言う。まるで横に居るラファエルが、聞こえて無くても一向に構わないといった感じの声の大きさだ。
「俺はずっとお前が姫のことを言うたび、うざくてどうしようもなかった。本気で、馬鹿だって思ってた―――会った事も無い上、俺たちに何かしてくれたわけでも何でもねえ…」
「………………………」
ラファエルは黙ったままジェイクの言葉を聞く。
「何でお前は、そんな奴のためにあそこまでやるのか、昔から不思議で仕方なかった―――……」
病室は、ようやく落ち着いたようで器具を洗浄する音がカチャカチャと響くだけだ。
「でも、…今なら、その気持ちが何となくだが、わかる気がする」
「………………………」
姫は強情で、我侭で―――
聖都まではまだまだ時間はかかる―――
シルビアはノインを伴って、車をある場所に向って走らせる。
少し前、浮島から地上へと降りてきた。
許可など勿論取ってはいない。
王である祖父にも何も告げてきてはいない。
もう、決めたのだ。
久しぶりに聞いたヒイロの声。
懐かしむ間などまるで無かったが、恩赦を受けるつもりなど無いと、はっきり分かった。
それでもいい。
自分の名を使い、世界に発言すれば、彼の行動は決して間違っていることではないと、少しでも伝えることが出来るから。世界に。
車内から外をただ眺める。
そうしていると、目的の場所へと辿り着いた。
それは、とても大きな豪邸―――。
シルビアは思う。
この車を降りれば、もう後には戻れない。
だから、シルビアは一度だけ瞳を閉じ、そして。
力強く、第一歩を踏み出だした。
2006/2/13