LOVER INDEX

#23冷たくない雪―5―

冷たく、硬い。
 部屋と言ってはいるが、監獄と同じだ。
 意識を手放し、後に目覚めたときはいつもこんな状態だ。
 今回は何を入れた―――?
 そう考えた直後すぐに答えが出る。
 『識別番号AQUA09』
 そうだ。今回はこれだ。

 無理矢理、起き上がるが、身体がだるく、自分の身体ではないようだ。
 だが、これもいつものことだ。
 片膝を立て、体勢を安定させると、ようやく、深く息を吐いた。
 すると直後、きつく鼻を突くほどの悪臭。
 原因は調べる意味も無い。わかっている。
 俺が意識を手放す前に散々、嘔吐し、結果吐き出した残骸で部屋中溢れているのだ。
 当然、そんな上をもがき苦しんだ俺自身も、十分、悪臭の原因だ。
 いつものことだ。

 『識別番号AQUA09』とは、毒だ。
 この組織のやつらは狂っている。毒の性能を確かめるために人体実験を行っているのだから。
 だが、今回も俺は死ななかったらしい。
 大分毒の免疫がついてきたということを意味しているのかもしれないが。
 どちらにしろ、部屋の隅で固まっている1人の男。あいつは『識別番号AQUA09』で死んだということだけは確かだ。

 そこに、俺が目覚めたことを知った奴らがいつもと同じようにやって来た。
「3人中1人生還、1人死亡、1人は意識錯乱。次は『識別番号AQUA09』に『MARS04』を加えた物を試してみるかの」
 男は部屋を見回しながら手元のレポートに次々と書きこんでいった。
 しかし、部屋には一向に入ろうともしない。
 これもいつものことだ。嘔吐物まみれの部屋など、やつらは決して入りたがらない。
 そんな奴らの俺たちを見る目は蔑むなんてものではない、汚い物を見る目で、人として見ているのかどうかすら、疑わしい程の視線を向けてきた。
 「臭いな」「美形が台無しだな」「あれで死なないとは、化け物だね」「ゲロまみれだ!こりゃ傑作だ」と、思い出される言葉は数知れない。
 本当にくだらない連中だった。
 利益目的以外、誰かが誰かを助けるなど、皆無。
 
 それだというのに、あいつの手を振り払ってしまった。
 あいつの手を…




 外に出ると先程までは止んでいた雪が再び降り始めていた。
 はあ、と息を吐くと白く変わった。
 カトルさんがヒイロの手術を始めてから既に四時間。
 それでも一向に終わらず、まだかかるという。

 だからわたくしは、教会に桶を貸してもらい、今は洗濯をしている。
 動いていないと、不安ばかりが胸を占めるから。
 ジャブジャブジャブ
 洗っているのは服だけではない、小物、ベルト。そう、何もかもが血で染まってしまったから。その中には僧服もある。
 ヒイロの傷のためにも清潔にしていなければならないのもあるが。わたくしには着替えが今はこれしかないのだ。着替えは全て列車で下ろしてきてしまった。
 ゼロの重量を軽くするためにと。…だが、ゼロが既にいない今では、あの時点で荷を降ろしていようが降ろしていなかろうが、着替えが何もない今の状態は変わらないということだ。
「…………………………」
 白いコートについてしまった血はきっと落ちないだろうから、今は下着の上から直接コートを羽織り、洗濯を続けている。
 コートの隙間から雪も風も入ってくるが、気にせずに洗濯を続けた。
 教会のシスターから借りた服を汚してしまった。

 洗濯がようやく済むと、教会の中に戻った。既に夜遅いこともあり、回廊にもホールにも誰もいなかった。
 そのため誰とも会わずに、わたくしのために用意してくれた部屋へと辿り着いた。
 部屋はとても小さく、ベットの他は、壁にかけられた十字架のみで他には本当に何も無い。
 電気すら、この部屋には通っていないために、明かりは手元のローソクのみで、とても薄暗い。
 しかし、本当に明るくしようと思えば、魔導を使えばいいのだ。しかし、リリーナはそうすることしなかった。そんな元気すらないのだ。
「……………………………」
 リリーナは僧服を干すと、部屋に置かれた粗末なベットに腰をようやく下ろした。
 眠らなければならない。
 わかっている。昨日から殆ど丸一晩起きていることになるのだ。これでは、何かあったときに、とてもではないが対応出来る状態とは言いがたい。
 わかっているのだが、眠気がやはりやってこない。身体はどうしようもなく疲れているのに、心が落ち着かない。
 先程も、本堂で神に何度も何度も祈りはした。でも、駄目なのだ。心は落ち着くことがない。
 息を吐き、崩れるようにベットで横になった。
 小さな窓が、風でガタガタと揺れている。




そんなころ、列車の中では、ドロシーがイライラと部屋を行ったり来たりとしていた。
 何かがおかしい。
 先程から陣を、二度も別の形に書き換え、試してみてはいるが、まるで反応をつかめない。
「駄目ですわ」
 ドロシーが、面白くないといった表情で窓の向こうをじっと見つめた。
「そうか。ならばこの近辺の街と村、全てを残らず探していけばいいだけのことだ」
 ゼクスはそう言うと、手元の地図をじっと見詰める。
 この辺りは、小さな町や村が本当に数多い。
 厄介といえば厄介だ。
 何しろ、谷のあちら側に渡る橋が壊れてしまったのだ。別の橋に辿り着くまでにはまた数日かかる。
 自分ひとりだけならば問題も無いのだが…。
「ゼクス様。この辺りに、結界を張れるような者はおりますこと?」
「結界?」
「天候も確かに悪いですが、ここまで何の反応もつかめないのは明らかにおかしいですわ」
「ほお。では、何が原因だと?」
 ドロシーは陣の数箇所をチョークで修正しながら話し続ける。
「可能性としては、一番強いのが、結界の中に逃げられた。それも、相当に強い魔導で構築された結界の中に」
「だから、この辺りで結界をはれる者がいないかということに繋がるというわけか」
「ええ」
「わかった。調べてみよう」
 ゼクスはそう答え、グラスに入ったワインを飲み干した。

 一体この先に居るのは誰なのか。
 忌々しい。自分の占星術を阻むなど。
 許せないほどの屈辱だ。
 ドロシーの右手に握られたチョークが怒りにより真っ二つに折れた。





 夜明け近くになって、ようやく手術が終わった。
 しかし、とりあえず症状を抑えただけだという。
 体力が本当に落ちていて、これ以上は今はやめた方が良いと。血を流しすぎた。
 当然だ。だって、本当に血で何もかもが染まっていたのだから!
 カトルさんはしばらく、安静にし、様子を見ると言い、更に言い難いが、まだ予断は許さないということに変わりは無いとだけ付け加えられた。それでも…。
「良かった…」
 吐き出すように、声が漏れた。
 リリーナは一気に身体の力が抜けるのがわかった。
 死に向うしかなかった昨日よりも、それを止めた今の方がずっと良い。

 あれから結局、一睡もしていない。眠れなかったのだ。
「カトルさん。皆さん、ありがとうございます」
 この場に居る、カトルさんを含めマグアナック隊の皆様、教会の神父、シスター達に深々と頭を下げた。
「いいえ。どういたしまして」
 カトルは一切の疲れも見せずに微笑んだ。
 カトルのそんな優しさが、今のリリーナにはとても嬉しかった。
 そして、マグアナック隊や教会の人たちは、それぞれの部屋や外へと散っていった。
 わたくしも彼らと同じように部屋に戻るべきなのだ。
 それでも、足がその場から動くことを躊躇っている。
 そんな、わたくしの気持ちなど、カトルさんには伝わってしまっているのかもしれない。
 でも、カトルさんは何も言っては来ない。
 カトルさんは本当に、人の中に、無理に入って来ることしない。
 相手が答えるのを、欲するのを、ただ待ってくれるのだ。
「………………………」
 だから、散々悩んだが、言うことにした。
 それに、抑えることも出来なかったのが真実なのかもしれない。
「カトルさん…その……会えますか?彼に」
 わかっている。駄目で元々。
 会ってどうなるものでもない。意識などないのだから。
 それでも……
「いいですよ」
 カトルが本当に優しく微笑みながら答えた。
「!…ありがとうございます」
「いいえ。ただ、顔を見るくらいで抑えてください。彼は気配に敏感だから」
「はい」

 走り出したい衝動を必死に抑えまっすぐに向った。
 教会の天井は高く、熱が全くこもらない為に、とても冷えたが、今はまるで気にならなかった。
 そして、その途中でシルビア姫の護衛のノインとすれ違った。
 出会ったのは数度。砂の国でも森深い城でも。ただ、話すのは考えてみれば初めてのこと。
「貴方も相当お疲れのようですから、早くお休みください」
「…ありがとうございます」
 ノインは、ヒイロの治療の際に使用したという、お湯を捨てに行く所だという。
 本当に…OZにも十分助けられている。
 僧服の裾をぎゅっといつの間にか、握り締めていた。

 こうして部屋に向っていると、会いたい反面、迷っている自分がいることにも気がついた。
 顔を見てもどうなるものでもない。そうだ。そうなのだ。
 これは自分のためだけの行動なのだと。
 ヒイロにとって悪いことはあっても、良い事など一つも無い。
素直に今は待つべきなのだ…。
 だから、迷ってしまう。
「……………………………」

 それでも、何だかんだと言っても、やはり会いたくて、顔を見たくて…心配で、不安で…。
「うん!」
 だから、心を決めた。
 どうせ、一目見ないことには眠れないだろうから。
 それに、先程自分の僧服と共に洗濯したヒイロの服も置いていこうと、無理矢理納得させる。

 しかし、わたくしは、このときの判断をずっと、後悔する事になる。
 知ってはいけない事、気付いてはいけないことがあるのだと…。
 無知で、周りが何も見えていなかった、わたくし―――。



 ノックは必要ない。
 何しろ、意識がないのだから。
 しかも絶対安静人。
 だから、気配を消して、戸をそっと開ける。
 気配を消すことは、EARTHに居たときからずっとしていたのだ。羽の拘束具とか、あの頃は、嫌なことが本当に多くて、見つかりたくないことが多かったのだ。
 しかし、こんなところで、そんなときのことが役に立つとは、生きているといろいろなことがある。

 部屋に入ると、暗く、消毒液のにおいがした。微かに、ピッピッっと、機械音もする。
 ただ、寝室は今居るこの部屋の隣のため、何の機械なのかはわからない。
 わたくしは、手で持ってきたヒイロの服を棚の上にそっと置いた。
 人の動く気配がする。
 緊張する。
 しかも、あれだけ、ヒイロを苛立たせて、別れた後だ。
 だから、隠れるようにそっと、本当にそっと、寝室に足を一歩踏み入れ―――。

 息が止まった。

 そのときのわたくしには、そこで起こっていたことが頭に一切、入って来る事が無かった。
 それがどういうことで、何の意味があって、当然の行為だとか―――。

 ただ、気がついたときにはその場から逃げ出していた。

 無心に走り続けた。
 教会の長い長い回廊を止まることもせずに、一気に駆け抜けた。
 皆疲れているのだ。夜明けなのだから、静粛にしなければならないだとか、そんなことを考え付くことも出来ずにただ、逃げ出した。

 何故、気が付かなかったのだろう。
 先程、手術が終わった後集まったあの部屋に、彼女が居なかったことに。
 何故、考えなかったのだろう。
 わからない。だって、ヒイロのことしか考えていなかった。
 あそこにラシードさんが居たかどうかすら、わたくしは覚えてもいない。
 これは、自分の浅はかさに呆れるなんてレベルではない。


 恋人。
 秘密の恋人。
 そうだ。そう言っていた。誰もが。皆。
 何故、王室護衛騎士を辞めたのかわからないと。

 そうじゃない。
 口付け―――。
 口付けをしていた。
 ヒイロに、口付けをしていた。
 ヒイロに、シルビア姫が、口付けをしていた。


「あ!」
 雪の上に激しく転んだ。
 いつの間にか、外に出ていた。
 息が苦しい。
 ハアハアハアハアハアハアハアハアハアハア
 雪の上に汗がポタリポタリと落ちた。
 どれくらい走ったなんてわからない。

 雪の上についた両手をギュッと雪を掴むように握り締める。

 どうしよう―――
 何を?
 わかっている
 何が?

「ああっ…!」
 吐き出すような声が漏れ、雪の上に倒れこんだ。
 雪の凍えるような冷たさでも、頭なんて、まるで冷えない。
 眉を寄せ、表情は今にも泣き出しそうなもので――。

 ヒイロとシルビア姫が、口付けをしていた。
 見てはいけなかった―――……
 あんな二人を見てはいけなかった!


 だって!
 気がつかされた。
 嘘。
 本当はずっと、もっと前から知っていた。

 だって、嫌。
 何が?
 触れるのが
 何を?


 どうしよう。
 パーガン。どうしたらいい?
 どうしよう。
 ゼロ―――!

 王の心は自分のモノでも、神のモノでもなく―――民のモノ。
 知っている。そんなこと知っている!
 だから、どうしたらいいのかわからない!

 この感情は知っている。
 言われなくても、知っている。

 嫉妬。

「…っ!」

 まずいって思っていた。
 ここ数日ずっと!
 ヒイロが死んでしまうと突きつけられてから、わたくしは、ヒイロのことしか考えられなくなった。
 こんな感情は駄目だ。
 駄目だってわかっている。

 今までだって、大丈夫だった。気が付かなかったのに―――!
 森深い城で姫に会いに行くときだって、姫の護衛につくって言うときだって!

 でも、でも!
 あんなヒイロを知ってはいけなかった―――!
 
 逃がし、怒鳴り、引きずるようにしてまで、わたくしを歩かせ続けたヒイロを!
 ゼロを躊躇無く自爆させ、その先にあるのが自らの死だと知っていても、尚、動き続けたヒイロを!

「ああ…あああ」
 嗚咽が漏れた。

 ヒイロの生に対する、尋常で無い壮絶さ、執着、固執。
 わたくしの生きるということの考えの甘さをとことん知らされ―――
 ヒイロの強さを、本当の強さを!


 そんな強さに、優しさに―――
 ずっと、惹かれていた。

 ガン!
 気がついたら、雪を右手で殴りつけていた。
 ジンジンジンジン
 本当は痛いのだけど、痛くなんか無い。
 だって、今だって夢を見ているみたいなんだもの!

 知っていた。
 いつから―――?
 ずっと…
 そう、ずっと―――

 だって、嫌いだったときなんて、――無い。
 嫌いだったときなんて無いんだもの!

「…ううっ!」
 嗚咽を漏らすまいと唇をギュッと噛む。
 それでも、肩の揺れは止まらない。

 王は誰か一人のモノではない
 国のモノで、民のモノで!
 絶対に!

「ああ!」
 自分のあまりの不甲斐なさに涙しか出ない。

 どれだけ、わたくしは…愚かなのか――


「神様…!」

 ガン!
 再び雪に右手を力一杯、振り下ろした。

 わかっている。
 こんなことに悩んでいるときではない。
 それこそ、ヒイロが知ったら、呆れられるなんてものではない。
 今度こそ、見限られて―――

 唇を血が滲むほどにぎゅっと噛み締める。

「………………………」
 のろのろと、維持でも立ち上がった。その動きにあわせ身体についた雪がパサパサと落ちる。

 はあと、大きく息をついた。

 周りの木々からは鳥の鳴く音が聞こえる。いつもと変わらない朝だ。
 いつの間にか辺りはもう、明るい…。
 少し離れた所に、教会が見える。
「………………………」


 完璧だと、―――いつ間にか、勝手に思い込んでいた。
 倒れることなど無いと…


 雪が止む気配がまるで無い。
 手が、足が、何も感じないほど冷え切っている。
 だというのに、まるで寒さを感じない。
 心の方がずっと、冷えている。
 今、ここで座ったら、二度と立ち上がれない気がする。
 だから、立ち続けた。動くことも出来ず、ただ―――。

 理由など本当にそれだけ――――そんな理由しかない。
 結局、わたくしは自分のことしか考えていないのだ―――。

 厚い雲で覆われた空を見上げる。
 これ以上、涙を流すことは許されないことだから―――。
 ただ上を見続けた。






2006/8/17


#23冷たくない雪―6―

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