LOVER INDEX

#23冷たくない雪―6―



 シルビアは、ヒイロに付けられた点滴の中身がなくなったので、新しい物と交換をした。
 手術が終わってから三時間。
 時刻は六時四十分。

 カーテンの隙間から外を眺めると、この時間になってようやく、辺りが明るくなってきた。
 EARTHと比べると1、2時間遅い日の出だ。
 だからなのか。この時間になってようやく、人が朝の準備をはじめている。
 結局、一睡もしなかった。
 こんなことになっているとは、思っても、考えてもいなかった…。
 昨日まで、ようやく会えると心待ちにしていた自分は、一気にどこかへと消えた。
 ふうと息を吐くと、カーテンを再びしっかりと閉め、視線をヒイロへと戻した。

 顔色が真っ青だ。
 もう、何も考えることが出来ない。
 ただ、願うことは彼の目が覚めることだけ。
 ヒイロの頬に右手でそっと触れると、冷たい。

 疲労と、不安がピークに達しているのだと、ノインに何度も言われている。
 だから、何度も何度も自分が診ているから、睡眠を少し取れと。
 今でもノインは、隣の部屋で待機してくれている。
 はあと、息を吐いた。
 眠れない。
 怖い。どうしようもなく。

 EARTHに居たときも、こんな夜は確かにあったではないか。
 自分を狙った、暗殺者が何度も何度もやって来た。
 そんなときも、ヒイロはいつも一歩も退くことなく、護ってくれ…自らはボロボロで。
 それでも、ここまで酷い状態のヒイロを見るのは初めてで。
 意識がまるでないなんて―――。
 彼は、いつだって、麻酔が切れた瞬間目覚めていた。
 もともと、麻酔も効きづらい身体なのだと、サリィが言ってはいたが!
 だから、怖くてどうしようもない。
 麻酔の量は手術と同時くらいに切れる量しか使っていない。それなのに、目覚める気配の無いヒイロ。
 勿論、ゆっくり眠ってもらいたい。でも、一度。たった少しだけで良いから、目を覚ましてほしい。一瞬でも良い。目を開けて欲しいのに!
 涙がポロポロと流れ始める。
 これで何度目かもわからないほどに、涙はあふれ出てくる。
 両手で顔を覆う。
 苦しい。苦しくてどうしようもない。

 理不尽だと、わかっているのだが―――怒りが収まらない。
 彼だけが、こんなにも酷い状態であることが、何よりも許せない。
 ならば、彼女も酷い傷を負っていれば、自分は納得をするのか?
 違う!でも、怒りが収まらないのだ。

 そう。理不尽だ。
 私だって、彼と戦っていたわけではない。わかっている。
 それどころか、そんなときは、私は直ぐに逃がされてまでいた。
 彼女のように、隣で立っていることすらなかった。
 だから、八つ当たり。これは、醜い、八つ当たりで、嫉妬。

 余裕が少しもない…
 ああ。神様。
 シルビアはただ、神に祈った。



 教会から飛び出してから、ずっと同じ場所で立ち続けてからどれくらい経ったのか、不意に呼ばれた。
「シスター!」
 でも、それが初め、わたくしを呼んでいるものだと気がつくことが出来ず、気がついたときには、すぐ横に立っていた。
「シスター?聞こえなかったかい?」
 そこには、大きな体系の中年の女性が立っていた。
「いえ、すみません。少し考え事を」
 自分が教会から借りた僧服のままだったことをすっかり忘れていた。
「おや?見ない顔だね?何、来たばかりなのかい?」
「ええ。ああ。そうです」
 あえて、よけいなことを言うのは避けた。
 これも、ヒイロから学んだことだ。人は言わなくても、相手が勝手に想像して、それなりに納得してくれることも多いのだと。
「それにしても何でこんな所で立ってるんだい?身体だって冷え切ってるじゃないか!」
「え…ああ。そうですね」
 寒さに麻痺してしまったのか、本当に寒さなど感じないのだ。
「そうですね!じゃないよ。まったくシスター達はこれだからね!神様のこと以外は自分のことは気にしちゃいないよ!」
 中年の女性が呆れたように言った。
「まったく。これだけ朝早いんだから、ミサまでは時間があるだろ?村の温泉に一緒においで。あたしも今から行くとこだから。あたしはエマ。街じゃパン屋のエマって呼ばれてる」
「え?」
「え、じゃないよ。それだけ冷え切って。死んじまうよ!」
 そう言うと、エマさんはわたくしの腕を掴み問答無用で教会とは反対方向へと歩いていった。

 しかし、わたくしも、今は何となく教会に戻るのは避けたかったので、とくに逆らうことをしなかった。
 決めたのだ。
 考えるのは止めようと。
 ヒイロのことを今は考えるのをやめようと。
 それだけで、必死だったのだ。
 そうでなければ、このときのわたくしは動くことも出来なかったのだ。
 何しろ、こんなOZがいつ襲ってくるかわからないこの状況で、温泉に入ることで翼が水に濡れるという事態に、何の躊躇いも疑問もうまれなかったのだから。
 そんな命に関わるような大事なことですら、気がつくことが出来なかったのだ―――。



 途中、エマの娘さんとも合流した。
「ごめんなさいね。母さん強引だから」
「馬鹿!何が強引なもんかい!触ってごらんよ、この子の身体!全く、女の子はね、身体を冷やしちゃいけないんだよ!」
 エマさんの声は本当に怒ったもので。
 だから、とてもすまない気持ちでわたくしは一杯となり…
「すみません」
 気がついたときには謝っていた。
「そうだよ!まったくもう」
 そんなわたくしとエマさんの会話を娘さんがクスクスと笑っていた。 
 年はわたくしよりも少し上だろう。髪はブラウンで、肩の辺りで一つに結んでいた。
 名前はジル。

 エマさんが言う村の温泉は村の外れにあった。村の共同浴場らしいのだが、朝早くの為かわたくし達の他は誰も居なかった。
 ここからでは、教会はすっかり木々で見えない。
 そして、そんな教会の更に奥にそびえる山々に目が奪われる。
「綺麗でしょう?頂上付近は雲で隠れちゃっているけど」
「本当に…美しい」
「あの山には伝説があって、昔、天空の城があったんですって」
 ジルさんは、山々のうちの一つを指した。
「ええ…知っています…」
「知ってるの!珍しいわ。この伝説って、この村だけかと思っていた。あれだけ高いんだからそんな話が作られるのも無理は無いわよね。でも、実際には湖だけしかないんだけどね」
「行った事があるのですか?」
「昔、近くまでね。こんな寒さでも、全く凍らない不思議な湖として有名なの」
「そうですか…」
 リリーナは黙ったまま山を見つめた。

「ほら!シスター、ぼうっとしてないでさっさとお脱ぎ!」
「あ。はい」
 エマさんに呼ばれ、一気に意識を戻された。
 そうだ。今は温泉だ。

 だが、温泉に入るとは言っても、このウィンプルと呼ばれていた頭巾というか、ヴェールをとってしまった後、わたくしはひとりで再び着る事が出来るだろうか。と、一瞬頭を過ぎりはしたが、それどころではなかった。
 再びエマさんから、風邪を引きたいのかと、急かされた。

 素直に、諦めた。
 確かに、こんな状態では風邪を引いてしまう。
 今、そんな体調になるわけには行かないのだから。
 頭巾を脱ぐと、エマさんがまじまじと顔を覗き込んできた。
「…な、何でしょうか?」
「あんた、ヴェールでよくわかんなかったけど、本当に美人さんだね!」
「え?」
「こんなに綺麗な子は見たことないよ!」
「本当に綺麗ね!」
「え?そんな、…ああ」
 エマさんとジルさんの言葉に何と言ってよいかわからず、兎に角服を脱いだ。
「え!」
「え」
 またもや、二人の声が降ってくる。今度は何だと思う前に、言われた。
 そして、これで、本当に今の自分は駄目だと気がつかされたようなものだ。
「あんた、羽ビトなのかい!?」
「すごい!私、羽ビト見るのってはじめてだわ!」
 あれだけ隠していた…羽を、こんなにも簡単に人の目に晒してしまった自分。
 何をしているんだろう、わたくしは…。
 わたくしは、ええ。とだけ、答え、二人を残し、温泉へと先に向った。
 
 その温泉は外にあり、周りには雪が積もっていてとても幻想的な風景だ。
 温泉に足を入れた途端、あまりの熱さに、思わず声が漏れた。
「熱い!」

「あははは!!ほらごらん!身体が冷え切ってるからだよ。ゆっくりお入り」
 エマさんは豪快に笑いながら、わたくしの横からじゃぶじゃぶと入って行った。
 そんなエマさんを、若干唖然としながら眺めていると、ジルさんがこっそりと教えてくれた。熱くてどうしても入れなさそうならば、雪を入れて温度を調節するとよいと。



「暖かい…」
 身体が温められたからなのか、流石に眠気がやって来た。
 今すぐにでも眠ってしまいそうなほどに。
 だが、エマさんたちが話を続けているおかげで、どうにか起きている。
「教会も、昨日は大変だったんじゃないの?シルビア姫も来てるだろ?」
「ええ、そうですね…」
「で、あの護衛のヒイロ・ユイの様態はどうなんだい?助かりそうなのかい?」
「彼は死にません」
 これだけは、はっきりと返答した。
「そうかい。そりゃ良かった。姫様が泣くのは見たくないからね…」
 わたくしとしては、今は彼らの話しをしたくは無いのだが、そう上手くは行かないようで。
 何しろ、わたくしが、この村に来たばかりのシスターだと勘違いしているため、村のことをいろいろ話してくれているからだ。
 そうなると、どうしても、今来ているシルビア姫の話題が中心となってしまうようだ。
「姫様はね、必ず夏から秋の間くらいにこの村を訪れるんだよ。ただ、ここ2年ばかりは来ていなかったけどね」
「来ていなかった?」
「戦況が悪化してね、陸路が危なかったとかで。ただ、それでも、行くことを殆どの者は許していたそうだけど、あの護衛。ヒイロ・ユイが最後まで、EARTHを離れることを許さなかったとか何とか」 
 ヒイロが…
「姫様が心配なんだろね。男は自分の愛する人は、少しでも危険な所になんかいかせたくないものさ」
「……そうですね」
 それだけ言うのがやっとだった。
 ヒイロとシルビア姫の関係なんて、今は聞きたくないのに…。
「だから、この村に来たのは三年前かね?ジルがまだ学校に行っていたからね」
「そうよ。だって、私たち、姫様の後ろでコーラスしたんだもの」
「コーラス?ジルさんは歌が上手なのですか?」
 そんなわたくしの言葉に、ジルさんが笑いながら否定してきた。
「とんでもない!お上手なのは姫様ですよ」
「そうさ。姫様の歌は本当に、聴いただけで疲れも吹っ飛ぶって程さ!本当に、護衛のあの子があんな状態じゃ無ければ、聴けたかもしれないけどね…」
 エマは、本当に残念そうに言う。
「そうね。この村ではね姫様が来るたび、ちょっとした祭りを開いていたの。歌とか踊りとか」
「そう、姫様の踊りがまたすごいんだよ。もう、美しいなんてもんじゃないんだよ!そりゃ、もう女神様の様さ」
「そんなに上手なのですか…」
「ええ。姫様は、お一人で踊られる舞も、二人で踊られても、とても上手で。それに、お姫様なのに、村の誰とも気さくに踊ってくださるから!女の子にも大人気で。同性でも、踊りを申し込んでしまうほど!」
「そういえば、三年前、お前も踊ってたね!へっぴり腰で!」
「母さん!姫様と比べれば誰だってそうよ!」
 エマに対し、ジルが心外だと言った風に言うが、笑って話にまるでならないようだ。

 すごい。
 わたくしとは、雲泥の差だ。
 結局未だにダンスは踊れない。
 あれ以来練習などしていない。やり方がさっぱりわからないのだから、諦めたといったほうが良いのかもしれないが。
「良いかい。ジル。姫様だってあんたと踊りたかったわけじゃないさ。あの護衛の男と踊りたかったさ、そりゃ!」
「そんなの知ってるけど、踊らなかったじゃない!ヒイロが断ったって、誰だって知ってる!護衛が踊るのは禁止されているとかなんとかでしょう!?」
 わたくしも、それは以前、聞いたことがある。
 護衛が踊ってどうすると、冷たく言われた。
「ああ。表向きはね。だけど、本当はダンスが上手ではないから、姫に恥をかかせることになるって言うのが本当の理由」
「ええ!そうなの」
「あんたも、まだまだだね〜みんな知っているよ。まあ、あの姫のダンスの腕じゃね、あのお兄ちゃんが可哀想かもね。シスターだって、わかるわよね?男なら、女の前では良い格好したいとかね」
「…そうなのでしょうか…」
「母さん、シスターに何てこと聞くのよ!まったく」
 ジルさんが、怒るが、やはりエマさんに効果は無いようで。
 良い格好。
 あのヒイロが?
 本当によくわからないが…言えることもある。

 ヒイロはダンスが、決して下手ではない。
 上手いのだと思う。
 カトルさんも見たことが無いと言っていた。
 だから知らないのだ。ヒイロの上手さを。

 踊りたいのならば、踊ってやると、右手を差し出してきたヒイロ。
 考えないようにしているというのに、思い出されるのはヒイロのことばかりで。
 
 親子のなおも続く会話を他所に、わたくしはちゃぽんと頭までお湯に浸かった。



 ノックがした。アウダと名乗るその声で、カトルは入室を許した。
「なんだい?」
 カトルは、ヒイロに取り付けた機械から送られてくる症状の様子と、現在の状態とで薬の配合続けていた。デュオと比べ、本当に薬の配合は専門ではないのだが、そんなことを言っている場合ではないから。本、片手だ。
 そんなカトルに、アウダから予想もしなかった内容を言われる。
「あの、村のパン屋からジルと言う娘が来ておりまして」
「パン屋?」


 話を聞いた途端、大急ぎで、ジルと共にカトルはパン屋に向った。
 そして、村に唯一あるという小さなパン屋の奥の部屋に辿りついて、ようやく一息つくことが出来た。
「すみません。うちの母さん…じゃなく、母が無理矢理呼び止めてしまって」
「いえ…こちらこそ、お世話をかけてしまったみたいで。ありがとうございました」
 カトルは、深々と頭を下げ、礼を述べた。
「とんでもないよ。こっちこそ、この子を呼び飛べちゃって…。そのね、あたしたちよりも先に温泉からシスターが出たんだけど、あたしたちが出て行ったら脱衣所でこの子が服を着終わったのか、そのまま床で寝むちゃっててね。起きないんだよ。まったく」
「そうですか…疲れていたんだと思います…とても」
「そうかもしれないね…。会ったときからそんな感じだったもん。兎に角、あそこじゃ、風邪を引くから、あたしが勝手に連れ帰ってきちゃって。悪いね」
「いえ、本当に助かりました」
 リリーナはピクリともせずベットで眠っていた。



 今日も一日、雪は降り続いた。
 あと少しで、日が沈む。

「…………………………リリーナ…」
 こちらを背にするように立っていた。
 だからなのか、それとも、その名しか浮かんでこなかったのか、ただ気がついたときには、名を呼んでいた。
 だが、即座に別の人物だと、声で気がつかされた。
「あ!ああ…!」
 全身に緊張が走った。
 その人物は声にならない声をあげ、こちらに向かってきた。
 それでようやく気がついた。
 何故、ここに居るのか…?
「…良かった!」
 そう言って、抱きしめられた。
 そんな、抱きしめてきた人物の身体が小刻みに揺れ、首筋に暖かいものが当たる。
 泣いている。

 シルビア・ノベンタ


「君ってすごいね」
「…………………」
 すぐに隣の部屋に居たノインによってカトルが呼ばれた。
「後、数日は目覚めないって思ってた」
「…………………」
 ヒイロは目覚めたとは言っても、絶対安静に変わりは無いため、カトルが一方的に話している。まともに声を出せるどころか、話を聞くことですら辛い状態だ。
 だが、ヒイロが現況を説明して欲しいと、譲らなかったのだ。
 だから、部屋にはカトルとヒイロだけだ。
 ヒイロは、人の気配にもとても敏感なため、気配を減らしたのだ。

「とりあえず簡潔に話をすると、ゼロにちょっとした仕掛けをしておいたんだ。自爆したとき、僕に連絡が入るようにって。だから、ここに居る。で、ドロシーが居るって聞いたからさ、結界を張った。そうしないと、すぐにここが見つかってしまうから。彼女の占星術の力はこうしないと抑えられないから」
 それで、あれだけ自分たちの居場所が見つかったのかと、ヒイロは頭で何となく思う。
 思考がまるで上手く働かない。
「それから、シルビアさんはOZを出てきたんだ。君を助けたいってね。感謝するといいよ。君のことを寝ないでずっと看病し、治療したのは彼女だ。ずっと心配していた」
「………………………そうか」
 そして、カトルはヒイロをここまで運んできたというOZの隊長の男から聞いた限りの、これまでの経緯をヒイロに話した。

「処刑命令が出ているらしいよ」
「…だろうな」
 ヒイロは全く驚いた様子も無い。
 カトルがその様子に、苦笑をかみ殺した。

「大変だったみたいだね…ゼクスが出てきたってきいて、正直、僕も驚いた。あれだけの戦歴の持ち主だ。重要とは言え、たった一人の女の子を捕らえるだけの任で出てくるとは…しかも、ドロシー・カタロニアまでいるって」
「それに、正体不明のゼロと…同等かそれ以上の、……機械人形が一体」
「ゼロより!?」
 カトルは声が思わず、大きくなってしまい、慌てて声量を下げた。
「ごめん。そうか、少し調べてみるよ、それは」
「他にもカトル。ゼクスについても…頼みたい」
「ゼクス?…いいけど、気になることが?」
「ああ」
 ヒイロの声に息切れが混じり始めたために、カトルがここで止めようとスットプをかけた。それに対し、ヒイロも反論しようと一瞬考えたが、確かに、身体が限界のようだと悟った。咄嗟に出そうとした声が、息のみで、出なかったのだ。

 だが、どうしても聞いておかねばならないことがある。
 性質の悪いことに、おそらくカトルは確信犯だ。
 わかってやっている。
 だから、俺が椅子から立ち上がり部屋から出て行こうとする所を呼び止めたとき、カトルは全て分かっていると言ったような笑顔をこちらに向けてきた。
 ここで、殴っても文句は言われないはずだ。
 だが、そんなことはせずに、躊躇わずに言う。
「リリーナは?」
「大丈夫。眠っている。君が目覚めたって知ったら、きっと一番喜ぶと思うよ」
「どこに居る?」
「気になる?」
 ヒイロの視線が重病人とは思えないほどに、鋭くなる。
「今はちょっとこの建物じゃないんだ。村のパン屋に寝かせてもらっているんだ」
「パン!?」
 ヒイロが驚いたように、目を見開く。そして、直ぐにでもつれて来いとでも、怒鳴りだしかねないほどの表情へと変わったので、カトルはさっさと宥めるように言う。
「大丈夫。マグアナック隊も数人置いてるし、機械人形も2体配備している。」
「だが!」
「寝かせてあげて欲しい。本当に彼女は誰よりも寝ていないんだよ、ヒイロ」
「………………………」
「僕たちが来ても、君の手術が終わっても、彼女は寝なくて――確かに君の傷を治療したのは、姫だったり僕だったり、マグアナック隊のみんなだったりする訳だけど、君が死ななかったのは、リリーナさんのおかげだ」
「………………………」
「そんな彼女がようやく眠ったんだ。だからお願いするよ。僕からも。でも、まだ納得しないっていうのならば、君が直接迎えに行ってくれ。それなら止めない」
 出来ないと分かっていて言うカトルは、本当に性質が悪い。
 人のよさそうな、優しい笑顔の癖に、その実、内心は―――。
 溜め息を飲み込んだ。

 ヒイロはそれから、再び黙って眠りについた。




 次の日の朝。
 驚いた。
 目覚めたら、パン屋だった。
 エマさんたちから事情を聞き、一気に血の気が引いた。
 あまりの自分の醜態に、何度も何度も頭を下げた。
 何をしているんだろう。本当に!
 丸一日に眠っていた上に、人のベットでだ!
 半分落ち込みながら、パン屋さんから出ると、マグアナック隊の人たちとその上、機械人形までがわたくしのために、丸一日ここにいたそうで。
 もう、言葉が一言も出なくなった。
 最悪な自分。

 再び、お礼を言いながら頭を下げた。
 そんなときに、不意に聞いた。
「ヒイロの意識が?」
 マグアナック隊の人たちが大きく頷く。
「ヒイロの意識が戻った!」
 そういった後、何も考えられずに、気がついたときには教会に向って走っていた。
 両手を力一杯振り、足を必死に前に前に踏み出し、駆け抜けた。
 ハアハアハアハアハアハアハアハアハアハアハアハアハアハア
 息が苦しいが、ギュッと歯を食いしばって走る。
 バタバタと、頭巾(ウィンプル)が耳元で音を立てるが走った。

 ヒイロ!

   昨日、ヒイロのことはしばらく考えるのは止めようと、決めた自分は一体どこに行ったのか。だから、やはり、駄目なんだと本当に思い知らされる。目が覚めたと、知っただけでこの様。

 ハアハアハアハアハアハアハアハアハアハアハアハアハアハア
 途中、すれ違う村人が何事かといった目で、振り返ってくるが、走り抜けた。
 自分のこの今の様はどう考えても、許されないことだ。
 わかっている。昨日だって散々、悩んだ。
 でも、それは、ヒイロを見た後、反省することにする。

 兎に角、今は、一刻も早く会いたかった。
 ただ―――ヒイロの瞳が見たい。
 深い、プルシャンブルーの瞳を。
 しかし、この願いは―――――叶うことがなかった。


 予想もしなかったことに、言葉が止まり、頭が真っ白になった。
 頬を一筋の汗がつたった。
「彼は今、眠っているわ」
 部屋の前で、シルビア姫に止められたのだ。
「…………あ、はい。でも、それならば、顔だけでも見ることは…」
 走ってきたために、息がまだ整っていない状態だが、更に訴えた。少しだけでいいのだと。
 しかし、そうではなかった。
 彼女がわたくしにヒイロと会って欲しくないといってくる理由は、つまりはそうなのだ。ヒイロの怪我の状態だとか、そう言うことではなかった。もっと、別の、根本的なことだった…。
 何で、わたくしはこういうことにもっと早く気がつかないのだろうと、知った後で毎回後悔し、思い知らされるのだが、今回も言われるまで、まるで気がついていなかったのだ…。

「貴方には悪いけど、会って欲しくない」
「………………………」
「もう、十分でしょう?彼は、身も心も疲れ切っている…二度と会わないで欲しい」
 シルビアの声は強いわけでも、非難するわけでもなく…ただ、悲しみで溢れている。
 だから、リリーナはこれ以上、何かを言うことを止めた。

 悲しみの原因は、全て自分にあるのだ―――。
 そんな自分に、何かを言う権利は何もない。
 これは全て自分で起こしたことだから。
 自分で。

 ヒイロの目が覚めるだけで良いと考えていた、先程までの自分に、とことん呆れた。
 彼女の悲しみは、とても深い…。


 わかっている。
 いつまでもこんなことでは駄目だ。
 わたくしは、王だから――――
 王なのだから。
 泣き言ばかり言っていては、笑われてしまう…大勢の者に、パーガンに、ゼロ、そして、何よりもヒイロに。
 わたくしは、寝室を後にした。





「カトルさん、一つお聞きしたいことがあるのですが…」
「何ですか?僕にわかることならば」
 部屋には数人の作業を続けるマグアナック隊の人たちと、薬を調合しているカトルだけ。そのため、とても静かだ。そして、そんなマグアナック隊の人たちも、わたくし達が話し始めたのを合図に、静かに部屋から出て行った。

 ラシードさんから、カトルさんは今は教会の別の棟に居ると教えられやって来たのだ。
 動くことにしたのだ。嘆いている場合ではない。ヒイロが目が覚めた。ならば、動け、と。

「OZの兵。ゼクスのことです」
「はい」
 カトルが手に持っていた、薬ビンから顔を上げる。
「彼は一体どういう者なのですか?ヒイロが、あのヒイロがあんな一瞬で…それに、その―――」
「その?」
「いえ、すみません。何でもありません」
 これ以上言うことはあえて、避けた。
 それは王として―――。もう、しっかりしなければならない。

 OZのゼクスの魔導は、わたくし以上だった。これは、間違えようも無い事実。
 だが、それは、王として声に出してはいけない事実。認めてはいけない真実。認めるのは、事実と受け止めるのは、己の中でだけ。
 弱気な所を人に見せてはいけない。  

 そしてカトルも、何かを察したのか、そのことについてそれ以上何かを言うことはしなかった。
「ゼクスのことですか…丁度良かった。少し前に資料が上がって来ましたから」
「資料が?」
「ヒイロからも彼を調べるよう、頼まれていたんです」
「ヒイロからも!…そうですか…」
 カトルは、棚から束になっていた紙を取り出した。
「では、基本的なことも、貴方には話した方がよさそうですね」
「はい。お願いします」
 なにしろ、あの魔導の力は異常だ。
 確かに、わたくしはそこまで突飛して魔導が強いわけではないのだろうが、それでも、わたくしを軽く、超えていた…。

「彼の名は『ゼクス・マーキス』。OZでの位は、上級特尉。仮面の下の素顔を見た者はいないとか。そんな彼は、人々からライトニング・バロン、ライトニング・カウントとして、呼ばれたりもしています。OZにおいての戦績は、他を寄せつけないほど。それに人望も厚いと、聞いていますし、トレーズからの信頼も厚いとか」
「羽ビトでした。彼は羽ビトなのに…。OZに…OZに手を貸すなど…」
「リリーナさん。言い辛いことですが、OZの中には羽ビトが確かにいます。彼だけが特別という事ではないのかもしれません。ただ、確かに羽ビトの中で彼ほどの地位にいった者は他にいないのは確かですが…」
「はい…」
 そうだ。ドロシーだって、羽ビトだった。彼だけを攻めるのは間違っている。
 そうなのだが…。
「ただ、一つ。僕も知りませんでしたが、彼には秘密の噂があるようですね」
「噂…?」
「はい。殆ど知られていないほどの」
 カトルは部屋に誰もいないことを確認すると、声を出した。
「彼はサンクキングダムの王族と、縁のある者ではないかと言う噂があるそうです」
「王族と!」
 あまりの衝撃に椅子を後ろに倒してしまうほどの勢いで立ち上がった。
「リリーナさん、落ち着いてください。あくまで噂です。そう言う噂があるというだけのことですから」
「すみません…はい…ですが!」
 椅子を戻し、再び座ったが、鼓動の早まりはおさまりそうにない。
「では、続けますね。王族関係者と言われていますが、知っての通り。サンクキングダムの王族は、親類を含め、その全ては殺されたとされています。でも、リリーナさんの存在を考えると、その可能性もあるのかもしれません。現に王族である貴方が生きているのですから」
「……………………」
 もう、あまりに衝撃が強く、声にならなかった。膝の辺りで強く握り締めすぎた手が、白くなっている。
「彼が王族関係者だと考える、その根拠は、何なのでしょうか?」
「そうですね。いくつかありますが…これしましょうか。EARTHをOZが占領したあとのことです。OZがEARTHを今ほど、制御することが可能となったのは、最近のことなんです。だからこそ、OZは急速に戦火を広め、世界を支配することが出来た」
 確かにOZが、これだけ力を持ったのは、ここ十数年のことだ。
「EARTHは過去の遺産の集大成といっても過言ではない程の城。だからこそ、OZが目をつけたともいえますが。その中枢部は現代ですら解けない技術で溢れている。そんな城を、突然どうにかしろと言われても不可能でしょう?僕だって無理です」

 カトルさんが言おうとしていることが、嫌でも心に突き刺さってくる。
「そう。そんなEARTHの技術の僅かでも受け継いでいるのは、古い種族である羽ビトだけ。それも、王族やその者たちと縁のあった者だけだと。確かに、表面上のことならば、他の多くの者も知っていたでしょうが、ゼクスは知りすぎている。そう言うことのようです」
 もう、黙っていられなかった。
「つまり、ゼクスがEARTHの秘密をOZに…」
 カトルはそれには答えなかった。不確定の要素だから。その先は、それぞれの判断に任せると。
 これは、カトルがいつも取っている、スタイルだ。

 確かに、羽ビトが、OZでそれなりの地位を得るためには、腕や名声だけでは超えられないものがあるのかもしれない。それでも―――
「それでも…それが真実ならば…」
 リリーナの声が怒りのあまり震えている。
「王族と縁がある者なのに…あれほどの腕を持つ者なのに!」
 その怒りは抑えようが無いもの。
「サンクキングダムの騎士なのに!」
「リリーナさん…」
「王族関係者がOZの騎士となり、更に率先して世界に悲しみを増やし続けるなど、絶対に許されないことです!」
 リリーナの声は部屋一杯にこだました。
「リリーナさん…」
 リリーナは怒りを抑えるように、瞳をぎゅっと閉じた。

 ゼクスが王族と関係のある者―――。
 何故、そんなことに…!
 そんな者に、ヒイロは!
 本来は誰よりも、サンクキングダムの為に動かなければならないはずの者なのに!
 サンクキングとは何の関係もないのに、わたくしに力を貸し続け、護り続けてくれたヒイロを…!

 瞳をすうっと開けた。
「ゼクス・マーキスのことはわたくしが、責任を取ります」
「リリーナさん…そうお一人で責任を…」
「いえ。これはリリーナ・ピースクラフトの名に賭けても、正さなければならないことです。王として、見過ごすことは許されません」
 リリーナの声はとても静かなものへと変わっていた。




 そして、それから七日後。
 突然、その時は訪れた。

「これは…」
 カトルは、床に次々と浮き上がってくる文字を見つめ、苦い表情を浮かべた。

 夕方のことだ。
 この聖堂は十字の形に作られており、その十字が重なる中心の床に、文字が浮かび上がるようにして現われ始めたのだ。
「どこの文字だ?」
「さあ」
 マグアナック隊もこの教会の神父やシスターたちも顔を見合わせている。初めにこの文字を発見した、村人でさえ事態を見守るばかりだ。
 誰一人として、浮き上がってきている文字を知らないのだ。
 実の所、カトルでさえ、文字は見た事があっても、何が書かれているかはまるでわかなかった。
 しかし、これを書いている正体はわかる。
 ドロシー・カタロニア
 自分が張った結界を破れないと悟った彼女は、文字だけを侵入させたということだ。そんな行動は、敵ながら感嘆すべき行動だ。彼女は噂どおり、とても優秀だ。
 
「ラシード。兎に角急いで、これを一言一句間違えないよう書き写してください」
「はい」
 いつ消えるか、わからないのだ。
 だが、そんなラシードをリリーナが止める。
「必要ありません」
「ですが」
「これは、サンクキングダムの古い文字です」
 その言葉で、カトルは一気に思い出す。
 この間、砂の国の市場で見つかった羽ビトたちの古い本に書かれていた文字の配列と同じだということに。
 今は知り合いのトロワにその解説を依頼している最中で、ようやくその3分の2が終了したくらいなのだ。
 あの世界の文字に通じているトロワでもこれだけの時間がかかる。サンクキングダムの文字は古く、戦争で、資料が本当に残っていないのだ。
 そんな文字をリリーナは静かに見つめ、そんな彼女を誰もが息を呑むようにして見ている。

「カトルさん」
「はい」
「この間、聞かせていただいた噂は真実かもしれません…」
「え…」
 つまり、ゼクスが王族と縁がある者だという件を指しているのだろう。
「彼はEARTHの秘密を間違いなく知っている」
 二人以外には、一体何の話かさっぱり理解が出来ない。
「リリーナさん、ここには何と書いてあるんですか?」
「………………………………」
「リリーナさん。教えてください。僕にはこの村に来た時点で、この村に居る全てを護るという責任がある。それに、何よりも、貴方の力になると、初めて会ったあの日からお約束したことです」
 リリーナの瞳が僅かに揺れた。
「はい。覚えています…忘れたことなどありません」
「ここには何と?」
 カトルの言葉にリリーナは迷う。
 だが、その迷いは一瞬のものだった。確かに、カトルには、この内容を知る権利があると判断したからだ。
「彼らはもう、ここには来ません」
「え?」
「だから、この村に危害が加えられることは、もう無いということです…今、言えることはこれだけです」


「ラシード!直ぐに列車に戻って、トロワと連絡を取り、あれを解読してもらうんだ。アウダとアブドルは直ぐに辺りの捜索に出ている者と連絡を!他の者は、僕と一緒来るんだ!」
 カトルはそう指示を出すと直ぐにトロワから、この間上がってきたばかりの、例の羽ビトの書を解読した報告書と原文を照らし合わせる。
 先程の床に書いてあった文字をトロワが見つからなかったときのために、こちらでも解読を試みなければならない。
 彼女は、あれ以上はどう頼んだところで、答えてくれないだろうことは目に見えている。

 だから、ここにいるマグアナック隊の皆の力を借りてでも、維持でも読まなければならない。
 あの文字を。



 部屋の戸が開くと、ノインが入ってきた。
「どうしたの、ノイン?下が騒がしいようだけど…」
「ゼクスからなにやら、連絡が入ったのですが…読むことが出来ませんでした」
「読むことが出来ない?カトル様でも…」
 あれだけ、博識なカトルでも読めない文字とはどんな文字なのか、シルビアは眉を寄せる。
「ただ、リリーナ様は読めたようで、話では、サンクキングダムの古い文字だとか…」
 シルビアの瞳が僅かに見開いた。
 今度は何が始まるというのだ。緊張が全身を支配する。
 しかし、平静を装おうと、シルビアはノインから視線をそっとずらし、眠っているヒイロを見る。
 あの日から、彼女は一度もここにはやってこなかった。
 その間、ヒイロも目覚めたのは、僅かに二度だけだが。

「…それで、彼女はその書かれた文字の内容は、言わなかったのですか?」
「はい…何か事情があるのか。ただ、この村にはもう襲ってこないだけ」
 視線をようやくノインに戻す。
「襲ってこない…。そう、それなら良かったじゃない」
「そうなのですが…」
 ノインの表情は、難しいままで…。



 そんな、教会中が大騒ぎする中、リリーナは聖堂に残り、床をだまったまま見つめている。隣には、マグアナック隊のひとりも文字に変化が起こらないかどうかを監視するために、立っている。

 『我らは、はじまりの地へ行く。これが最後だ。三日後の晩までに来い。それが過ぎれば、村に火を放つ』

 リリーナは最後にもう一度だけ確認するように読むと、手に魔導を込め、文字が書かれた床をなでる様にして触れた。
 そんなリリーナが触れた箇所は、文字が一瞬にして焼け焦げ、跡形も無く消えていった。マグアナック隊のひとりは、その様子を信じられないといった表情で見つめていた。
 そして、最後の文字が消えると、リリーナは迷うことなく立ち上った。





「そこをどいてください」
 リリーナは、何の感情も含ませないような声で戸の前から動かない、シルビアに言う。
「そんな、格好で迷惑だわ」
「確かにそうでしょう。ですが、洗っても落ちなくて」
 部屋に行って服を着替えたのだ。僧服から、ここに来たときの服装へと。
 血の染みはやはり落ちなかった。でも、何の問題も無い。ヒイロの血だ。わたくしのために流された血だから。
「どいてください」
「二度と会って欲しくないと言ったはずだわ」
 シルビアの視線は鋭く、声は低い。頑として、戸の前を譲ろうとはしない。
「その、お急ぎなのでしょうか、リリーナ様?シルビア様も、一度話を聞いてみては、いかがでしょうか…?」
 突然の二人の様子に、横に居るノインはどう対処していいのか、半分困り果てる。
 しかし、リリーナはノインの提案に返事をすることは無い。
「これは彼との約束です。だから会わなければなりません」
「それでも、嫌だと言ったら?」
「どうにもしません。ただ、通してもらうだけです」
「だから、ここは!」
「貴方がOZの姫であるのと同じように、わたくしはサンクキングダムの王です」
「え」
「どきなさい」
 リリーナはそう言うと、右手をすっと差し出した。
 直後、ノインですら何が起こったかわからないうちに、目の前でシルビアが崩れ落ちるようにして倒れ、それをリリーナが支えた。
「シルビア様!」
 リリーナはノインに、シルビアを黙ったまま渡す。
「リリーナ様!」
「静かに。眠っているだけです」
 リリーナはそう言うと、部屋の戸に手をかける。
「お待ちください!事情をお聞かせ…!」
 叫ぶようにして言おうとしたノインの前にリリーナの手がすっと差し出された。
「騒ぐことは許しません。黙らねば、貴方も眠ってもらわねばならなくなります。そんなことをさせないでください」
「…………………………」
 ノインはとうとう黙り、リリーナは今度こそ、部屋に入って行った。

 この間のように、止まることも無く奥の寝室に向かって、まっすぐに歩いた。
 ベットには、ヒイロが眠っていた。
 本当に久しぶりで、こんなことが無ければ、まだまだ会うことが無かったと思う。
 布団のおかげで、包帯が見えなくて助かった。

 片膝をつき、そっと呼ぶ。
「ヒイロ…」
 すると、信じられないことに、直ぐに瞳がすうっと開き、視線が合った。
 なんでもないことなのに、奇跡のように感じられて、泣きそうになる。
「………リリーナ」
「ヒイロ…あの」
 名前を呼ばれたことが無性に嬉しくて…言葉が出てこない。
 
 ここには、別れを言うためにやって来た。
 それは、約束だから。
 ヒイロにも、自分の傍から黙っていなくなるなと、約束したから。
 だから、自分も別れのときはちゃんと、言わなければと…言おうって決めていた。
 だから、躊躇わずに、言わなければ。
 そうでなければ、ここに何のために来たのか、わからない。
「その…」
「………………どうした…?」
 ヒイロの声は、とても微かな音で…。
 だから、言葉が、声が喉からまるで出てこないのだ。
「その…わたくしは………ん!」
 全身がビクリとした。
「!」
 いつの間にかベットからだされたヒイロの右手が、わたくしの頬を包むかのように、突然触れられた。それは、いつまでも、ためらって、何も話し始めないわたくしを、心配している。
 そんなヒイロの手は、包帯や絆創膏で、とても痛々しいもので。
 わたくしの心配などしている状態ではないだろうに!

「…………リリーナ?」
 一体、どうしたいのかヒイロにはリリーナがわからない。
 頬に触れたままだった俺の手をリリーナは握るようにして取り、そのまま自分の頬にあてたまま動きを止めてしまった。
 そんなリリーナに、再び呼びかけようとした次の瞬間、息が止まった。

 どんな時だって、見たことが無い。
 辛く、悲しく、困難で、激痛を覚えた時だって…。

 リリーナは、俺の右手を掴んだまま、声を漏らすことも無く、泣いていた。
「……………………」
 閉じた瞳からは、涙がゆっくりと溢れ、頬をつたう。
 あまりにあふれ出てくるため、残った左手で涙を拭ってやろうと思うのだが、身体が動かない。
 だから、声を出す。必死に。
「…泣くな」
 声は思った以上に擦れ、息も続かない。
 そんな俺の状態だから、リリーナは大丈夫だと、何度も何度も頷いてくるが、信じられるものではない。

 だが、やはり、リリーナにはそんな俺の考えは直ぐに知れてしまうのか、次の瞬間には、明るい声で返してきた。それでも、瞳は涙で潤んでいる。
「安心しただけです。だって、ずっと目が覚めなかったから!」
「…心配ない…だから、泣くな…」
「はい。すみません…嬉しくて…嬉しくて…貴方が生きていることが嬉しくて…」
 リリーナは何度も何度も同じことを言った。これは嬉しい涙なのだと。悲しい涙ではないのだと、必死に隠す。
 感情に乏しいヒイロには、そんなリリーナの想いを読み取ることがやはりとても難しい。 だから、リリーナの言葉を信じてしまう。
 

 リリーナはこのときになってようやく、わかったことがある。
 何故、あの時。EARTHを出るとき、パーガンや機械人形たちの皆が黙ったまま、去った意味を。
 何も言わなかった気持ちが。

「大丈夫。ですから、もう少し眠ってください」
「…そうだな…」
「そうです!皆、貴方が動いていないと、駄目だから。貴方から希望をもらっているのですから」
「馬鹿言うな…お前ほどじゃない」
「いいえ…いいえ…兎に角。安心しました。これでもう大丈夫。大丈夫」
 大丈夫…。
 何か引っかかるような、物言いをするリリーナ。
 普段の俺ならば決して見逃さなかった。絶対に。

 なのに、その時の俺は…泣き止んだことの方が…重要で…。
 気がつくことが出来なった。
「ゆっくり、…眠ってください、眠って…また明日来ます」
「ああ」
「おやすみなさい、ヒイロ…また、明日」


リリーナはそう言って、ゆっくりと俺の手を離した。



冷たくない雪 終




2006/8/17


#24ハジマリの地―1

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